廣岡揮八郎・随想
  自分流「赤ワイン」
2人のワイン男
おいしいワインの選び方
近頃おすすめのボルドー赤ワイン 1
近頃おすすめのボルドー赤ワイン 2
ついに「ワイン・バー」開設
ブームに水差す、嫌な噂話も。
カーヴ・ドゥ・マルキにて
シャトーオーブリオン
水の都 ヴェネツィア
出会いは絶景
イタリア
オリーブオイルへの旅
「良い食品づくり」とは
お客さんの苦情について
あと口さわやか
お客さまこそわが師
庭づくり
おくり物には食べ物を
人間の寸法の場所
人間の寸法の場所②
「生産量と価格の関係」
「ヌードル大国、日本」
「厨房」のある社長室
風景は「人」がつくる
知られざる「昆布ロード」
食料自給率と福井の一百姓
味わいのある旅
美味料理の条件
ハムと塩の関係
何をどう食べるか? その(1)
何をどう食べるか? その(2)

  「水」について
心配になってきた「カタカナ」の洪水
“カルシュウム”に注目
気になるマクド価格
裏切られた二人のナチュラリスト
カフェハウス
プロテイン(第一人者)
水は流れて美しい
一夜で変身「飯塚店の庭園」
人が集まる10ヵ条
人生を左右する「口ぐせ」
人為が過ぎると、「偽」になる
えらい人より、輝く人になりたい
「みんながしているから・・・」
一年ひと昔
「人間」、この大いなる矛盾なるもの
ネット社会における「想像力」
「ウソ」と「真実」の間
贈り物
「接客サービス」は自己実現
「フランス料理の達人たち」
「食の安全」さらに厳しく
この20年
ありがたいお客様の「声」
ロースステーキを食べて体も脳も
比較しない生き方
場を清める
元気の「気」・病気の「気」
健康な人とはこんな人
「笑い」の力
「プロ中のプロ」ならば
「食べる」ということ
春夏秋冬味ばなし
  おいしさの条件
この季節に思うこと
「素材」が変る「味」が変る
熟成

  すばらしい丹波の食材
「ええ塩梅」と「肝腎かなめ」
「食通」とは
レストラン「トゥール・ダルジャン」
パルミジャーノ・レッジャーノ
「三田屋物語」
  第一号 はじめに
第二号 おとんぼ揮八郎誕生
第三号 母の教え
第四号 天賦の五感
第五号 母子三人貧乏ぐらし
第六号 三輪トラックの小学生
第七号 廣岡商店
第八号 10人前こなした揮八郎のバイト
第九号 習慣
第十号 「受け身」と「攻め」
第十一号 「勤勉」であること、と「時間」
第十二号 九州の湖畔のレストラン
第十三号 ほんもの
第十四号 「攻」と「守」
第十五号 長兄 優忠のこと
第十六号 レストランオープン前夜
第十七号 料理と芸術
第十八号 訣別
第十九号 「スタミナ」づくり
第二十号 店はキレイか
第二十一号 揮八郎の三田屋1号店オープン
第二十二号 三ツの「三田屋」
第二十三号 兄、廣岡償治のこと
第二十四号 水のように
第二十五号 「事業墓」予言
第二十六号 「商」から「工」へ仕掛け七分
  第二十七号 金仙寺湖畔のレストラン
第二十八号 ほんとうの「勇気」
第二十九号 揮八郎流リーダーシップ その①
第三十号 揮八郎流リーダーシップ その②
第三十一号 揮八郎流リーダーシップ その③
第三十二号 食は芸術(1)
第三十三号 食は芸術(2)
第三十四号 平成元年
第三十五号 「フォーコ」と楽観主義
第三十六号 平成七年一月十七日
第三十七号 平成七年一月十七日(2)
第三十八号 平成七年一月十七日(3)
第三十九号 近畿第一号「地ビール三田屋」
第四十号 日本の地ビール史上にのこる
第四十一号 地ビール醸造の心得
第四十二号 信念
第四十三号 信念・信念・信念
第四十四号 ドームのてっぺんに
第四十五号 ドーム9階に公園をつくる
第四十六号 円高と揮八郎
第四十七号 恐るべきはなれ技
第四十八号 いまは「大工」
第四十九号 「桜守」揮八郎
第五十号 老朋友
第五十一号 たゆまざる歩みおそろし
地ビール三田屋ストーリー
  故廣岡償治兄と共有した「夢」、消える
メーカーが造れないビールをつくる
可愛い子には旅をさせない

  ビールの味の決め手「泡」と「炭酸ガス」
「地ビール」への旅 なぜ、メーカーは酵母入りビールを造らない
地ビールの出発点・ニュージーランド

廣岡揮八郎・随想
○自分流「赤ワイン」
ことしに入って(1998年)、五月の末までの百五十日間で、およそフルボトル五百本分、銘柄と年度別にすれば千種類の赤ワインを飲んでしまったのには、われながら少し驚いております。一日平均七銘柄を飲んだことになります。仏・伊・南アフリカ・オーストラリア・南米・カリフォルニアが主な産地ですが、やはり9割がフランス、しかもボルドーの赤ワインに集中したようです。おかげで銘柄とそれぞれの土地の特色や、ブドウ収穫の良年や不良年のことなど、ひととおりおさらいができました。私流の赤ワインの味覚の判別は先ず、「ブドウの品種」の特性によって覚えることです。ロマネコンティで代表されるブルゴーニュは主に「ピノ・ノワール種」のブドウでつくられます。ボルドーのジロンド河の左岸、メドックやマルゴー・クラーヴ等私の好きな銘柄は主に「カベルネ・ソーヴィニヨン種」のブドウであること、サンテミリオン、ポムロール等右岸のワインは主に「メルロー種」であること、というふうにブドウがもつ味の特性を把握します。ブドウの品種のちがいは基本的に味のちがいであると私は思っています。私の最も好きなのはカベルネ・ソーヴィニヨン種でつくられた赤ワインです。私なりに覚えた一本一本に講釈をたれたい誘惑にかられますが、残念ながらここでは紙幅が足りません。

 話は変わりますが、五年前のことです。東京ディズニーランドの優れたサービスの勉強のために行った浦安での某一流ホテル内の鮨店でのお話です。当時鮨店がボルドーの赤ワインを置いていないのは初めから分かっていましたので、上層階の仏料理のレストランから取り寄せてくれるように云ったところ、料理長は「ムッ」とした顔つきになりました。それでも電話をかけて私の指定した銘柄のボルドーを取り寄せてくれました。しかし料理長は、「何という客」と言う目つきで睨むようにして私を見ていました。ところがワインを抜栓して少し間をおいたころ、料理長は自分の名刺を持って私の席まで挨拶に来ます。顔つきも打って変わって、申しわけなさそうな優しい表情です。「私の頭は石頭でした。赤ワインがこんなに甘い香りを部屋中に漂わせてくれるなんて想いもよりませんでした。」サシミをボルドーで飲(や)っていた私は仲直りの記念に料理長に一杯注いでやりましたら料理長は、「何と、何と・・・」と云った切り次の言葉がでません。料理長はお勘定の時、態々カウンターの中から出てきて、他のお客様にもこのよい香りが写ったようで、皆さんとても和やかな雰囲気になられました。鮨には日本酒と決めつけていた私のコンクリート頭がすっかり柔らかくなりました。何だか私自身のこれからの生き方まで教わったように思います。ほんとうにありがとうございました。と深々と頭を下げて見送ってくれたのでした。ワインと食事の相性はと、よく言われますが、何よりも自分流の発見が一番です。

 私は赤ワインを少し冷やして飲みます。国内で飲むときは室温では飲みません。これも私流ですが、飲む直前にワインクーラーに氷と水を入れてもらって3分か5分だけ冷まして飲みます。赤ワインは「室温で飲む」というのは産地フランスでの諺みたいなものと思います。仏と日本では気候、とくに温度差が異なりますので保存の条件もちがってきます。

 私がボルドーに行ったのはもう七、八年前になります。左岸のある村の小さなシャトーで気に入ったビンテージを見つけて100ケースほど買い込みました。ところが日本へ送ろうとして飛行機や船会社のエージェントにかけ合ったのですが、「ボルドーワインは個人の大量持ち出しはできない」、と断るのです。自分が買ったワインを持ち出しできないなんて、そんな無茶なと7、8軒もエージェントを回りました。そしてついに街外れの小さな航空エージェントが受付けてくれたことがありますが、ボルドーは仲々厳格な所です。久しぶりに今年はボルドー行きを計画中です。お目当ての産地とシャトーは大体決めてありますので私流の気に入ったビンテージをさがしあてたいと、ワクワクしているところです。
1998.6.23 Vol.019

○2人のワイン男
日本に赤ワインブームを巻き起こした理由のひとつに東京で開催されたフランス祭(Wサッカー搦みもある)における仏政府の大々的PRがあげられましょう私のように飲みすぎには薬ににもなりませんが、「赤ワインは健康に良い」と云うマスコミが揃って唄い上げた医飲同源論(?)は最も効果的であったと思われます。それに輪をかけたのがひとりの男の出現です。田崎真也。彼はヨーロッパ圏以外の人では、はじめてというソムリエ世界一の栄冠の人となりました。95年の春のことでした。今年6月の中旬、テレビがそのソムリエ世界コンクール98年版を写し出していました。選抜36人の世界のソムリエ達の凄腕には舌を巻きました。すべてと云ってよいくらい産地・銘柄・ビンテージ年をズバリと云い当てる彼らのテイスティング力には、ほとほと恐れ入ったものです。95年度も恐らく同じような情景であったと思います。田崎真也がその強者共の中で最高の栄誉に輝いたのはすばらしいことです。そして私には彼の次の言葉がとても参考になります。「ソムリエはワインに精通するばかりではなく、ソムリエである以前にサービスマンであること、最も大切なことはお客様に喜んでいただくことに感激できる人、であること。」ある西欧人は、「最も大きな快楽は、他人を楽しませること。」と名言を遺しましたが、田崎真也はその名言よりも遥かに真摯、かつ紳士です。

 突然と言っては本人に失礼、というより私の見識不足がバレてしまいますが、突然私の前に姿を現したワイン男がもう一人います。名前は江川卓。元巨人軍のエースです。「夢ワイン」と言う彼の著書が講談社から出されたのにはビックリしました。昨年の6月末、ちょうど1年前の出版です。読んでみて枯れが96年の秋に「ソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)」の称号を授与したことを知りました。そしてそこには西暦2000年の11月の第三日曜日に仏・コート・ド・ニュイ地区ヴージョ村にある12世紀の古城のカーヴに保存された「今世紀最良のワイン」を飲む会に招待された。その「招待状」が写っています。彼の著書を読み進むうちに、投手であった野球時代もそうであったように、とことんワインに打ち込んでいる姿がありありと見てとれます。私が社員たちにのみすぎの心配をかける、それ以上ののめり込みのようです。

 江川卓は今、プロ野球の名解説者です。異論はありましょうが、これまでの野球解説者で彼以上の解説はありません。彼の最も優れたところは「間(ま)」です。解説者は野球を解説するのが仕事ですから喋らなければなりませんが、彼の喋りには絶対と云ってよい位無駄がありません。彼の偉さです。「間」がとれています。言い換えれば、視聴者にもゆっくりと判断をゆだねているのです。彼は自分自身の体験と、会得した野球技術、大げさに云えば野球哲学を基礎にして、今から起ころうとするドラマをズバリと当てる。それは当たり前のことながらワインのテイスティングを遥かに越えて的確です。この先の回はどうなると言う先見ばかりか、押えの投手は今日はAでは駄目、Bにしなければといったことも実に正確に解説します。言ったあとは、暫く「間」が空きます。視聴者はその予言の成り行きをみます。そして「ヤッパリ」と頷くのです。

 彼は作新学院高校時代にノーヒット・ノーランを12回もやっています。145回連続無失点の記録などもう書き変えられることはないでしょう。その怪腕江川は今やワインのエースになろうとしています。私は彼なら日本一のワインのエースになれると思います。彼がオールスターゲームで連続9三振の江夏の記録に迫ったあと一人の打者、大石に投じたアウトコースへの3球目のカーブを、私は忘れることが出来ません。「ストレート」を投げなかった江川卓。誰がなんと言おうと私は、断固として江川卓は「いい男」だと言い切れます。彼のそのカーブは江川卓という男の化身だと思います。彼のその絶妙の「間」、人間らしさ、はその一球のカーブから生まれたと思います。それを彼のもって生まれた星だと著書にはあります。人の道を教える古典の書「菜根譚」は、「完全主義をめざさない。」と教えます。おそらく江川卓は日本一のワイン男となるでしょう。しかし決して「ソムリエ」にはならないでしょう。
1998.7.14 Vol.020

○おいしいワインの選び方
産地もブランドも一流、ヴィンテージが当り年、熟成もころ合い、値も高価、だからと言っておいしいワインだとは限りません。高いお金を払って買うのですから、ずばりおいしくないと困るのですが、仲々どうして思うようにゆかない。私の場合も随分と煮え湯ならぬ苦ワインを飲まされました。期待を裏切られた時の残念さは、言葉では表わし切れない程のくやしさです。そんな経験から、自己防衛のために私はワインに敢然と戦いを挑みました。どうすればおいしいワインだけを手に入れることができるか。どうぞ私流の「ワインの選び方」を聞いて下さい。

■「保管」「流通」を考える
ワインは高価で、しかも熟成年数の古いものほど多くの神経を払わなければなりません。理由は簡単です。長く保存されるものほどその年数分「手間」がかかるからです。それは「保存」に要する手間=管理です。ワインは通常15℃から18℃の温度で、湿度は70%位が良く、遮光された室で保存されるのがよいとされます。果たして自分の手に入るまでに、どこで、誰が、どのように正しく「保管」してくれたであろうか、と考えてみます。同時に私はそのワインがどのような流通経路を辿ってきたものであろうか、を考えてみます。輸入業者は誰か。買った小売店から逆流してその経路を想像してみることにしています。先ず避けなければならないのは、複雑な取引ルートが想像されるもの、何件もの取引業者を転々としてきたのではないかと想定されるものです。ワインは揺れを嫌います。流通が頻繁に行われるほど揺れは激しく、且つ「保管」に至っては実の心もとないと思うべきです。

■ワインに精通している
「小売店」から買うブームに乗って急揃えしたような小売店から買うのは避けた方がよいと思います。私の場合、店長に話かけてみます。ちょっと話をすればすぐに信頼してよい店かどうかが分かります。その前に店の品揃えと陳列の状態を見ます。室温なども参考にします。先ずワイン以外の商品と肩を並べて陳列しているところや高い棚の上に置いてあるところは、失格。温度管理も採光の心配もできていないと考えるべきです。

■輸入業者で判断
私の場合、大手ビールメーカー等ワインの輸入歴もそこそこ古く、彼は優秀な現地駐在員を置いて直輸入してきましたので十分な信頼をおいています。しかしそれぞれに得意な産地がありますのですべてがおいしいワインを揃えているとは限りません。このところは場数を踏んで覚えるしかありませんが基本的には海上輸送から最終ルートの小売店への指導まで徹底して行われているから安心できます。小さく共ワイン専門の輸入商も信頼できます。

■一流ホテルは最高の「管理者」
一流ホテルは地下階層にかなり充実した「カーヴ」を持っています。「保管」も「目利き」も「取扱い」も一流です。何の心配もなく最高の信頼を寄せることができますが、ただ「高スギル」ことと「サービス料」を強要されることには大いに抵抗があります。

■コルクは「芸術品」
私のセカンドバッグにはいつもソムリエナイフが入っています。レストランでは店長に断りを言って抜栓させてもらうようにしています。何故かと云いますと、コルクの抜け具合でおおよその「保管」状態やワインの良し悪しが判断できるからです。力任せにやっても仲々抜けないコルク、そうかと思えば簡単にスポッと抜けてしまうコルク、それらは問題ありです。コルクはワインの分身です。とても重要な役割があります。保存中に酸化をさせず、しかも適当に呼吸をさせているのです。私は抜栓したコルクのワインに触れた部分をじっくりと観察します。ほどよく濡れたコルクのその移り香は、まさに「芸術品」であるとすら思っています。
1998.9.22 Vol.021

○近頃おすすめのボルドー赤ワイン 1
昨年、(1997年)のフランスワインは、百年に一度の当たり年という朗報が入っています。今からとても楽しみですが、果たして最良年のこの97年物が飲み頃に容易に、しかも手軽な価格で入手できるかどうかは今のところ分かりません。ボルドーの赤は、「マルゴー」「ラツール」「オーブリオン」「ムートン」の五大シャトーをはじめ、「シュヴァル・ブラン」「オーゾンヌ」「ペトリュウス」は憧れの極上ワインですが、余りにも高価です。ブルゴーニュ地方の女王、「シャンベルタン」も甚だ高価で仲々手の出せる代物ではありません。しかしそれら有名ブランドにはセカンドグラスのものもありますし、又有名ではないが、優良ブドウ畑を有する隠れた小規模シャトー物もあります。この方は価格も手頃です。最近、私流に「掘出し物」的なワインをいくつか見つけましたのでその中から九銘柄をご紹介しましょう。

◇フランク・フェラン
ジロンド川河口左岸メドック地方の有名ブランドのフェラン・セギュールのセカンドラベルですが豊潤な味を持ちます。'94・'95年物は2千円を切ったものもありました。

◇シャトー・ボーモン
良質な赤ワインの産地オーメドック物で'93年物で2千5百円位。

◇シャトー・ベイシュベル '93 5千円
◇シャトー・デュクリュ・ボーカイユー '92 5千5百円
◇クロ・デュ・マルキ  '93 6千円
◇シャトー・レオヴィル・ポワフェレ '93 8千円
この四銘柄はいづれもポイヤックとマルゴーの間に位置している優良産地のサンジェリアン物で芳醇(ほうじゅん)でエレガントな赤ワインです。特にシャトー・ベイシュベルは当地の最も有名なシャトーのひとつ。クロ・デュ・マルキは2級の最高峰ラス・カーズのセカンドラベルです。

◇シャトー・カロン・セギュール '93 6千5百円
18世紀以来の古い歴史のメドック地方の有名銘柄で深いコクを持っています。

◇シャトー・カノン '94 8千円
サンテミリオンらしく芳醇で柔らかく、私の好きなタイプです。

◇シャトー・コス・デストゥルネル '93 9千円
メドック地方トップクラスのシャトーで柔らかめの高級赤ワインです。

以上ですが、一部を除いてふだん飲むには少々高すぎるワインが多いですが、ボルドーに免じて、どうぞ何かの記念日等にご利用になればと思います。価格はあくまでも平均的なものです。私は信頼のおけるかなり大型の専門店で手に入れますので表示したものより安く買っております。

■ワインの価格は一定ではない■
先ごろ出張先の東北の都市の大型小売店をのぞいてみて驚きました。私がいつも買っている銘柄が2割方安く売られているのです。一番差のあったのは3000円のボルドーが1980円で売ってあり、34%も安いのです。これだったら大量に買えば1本当りの運賃も80円くらいで済みますので大得です。やはり何でも足で稼ぐべきなのですね。最後にここに掲げた九銘柄は何れもボディが平均点より重厚です。先ず口当たりがよくグラスに寄り添うような少々のマッタリ感を持った豊潤タイプと云えます。好みはそえぞれ人によって異なりますのであくまでも「私流」であることをお断りしておきます。尚この九銘柄を飲む時、私は殆ど何も食べません。強いて食べるとすれば「食事パン」程度で酸味の効いた食べ物は絶対にとりません。酸味は折角の赤ワインの味が台無しになるからです。
1998.10.20 Vol.022

○近頃おすすめのボルドー赤ワイン 2  
烏兎怱々という表現がぴったりのように私たちの周囲では月日は流れるように過ぎて行ってしまいます。この随想の連載をはじめてからもう5ヶ月が経ちましたが、この間にも百年に一度の当たり年という1997年(昨年)ボルドーの赤ワインが少しずつ少しずつ熟成されてゆくのかと思うと、何だか待ち切れないような、そんな時の流れの緩やかさを一方では覚えないでもありません。

 私は先月の号で赤ワインの価格は一率ではないと書きましたが、そのワインの価格がこの5ヶ月間で急変しました。とくにボルドーの赤ワインが高騰しました。責任の一端は私にもあるように思うのですが、TVでも雑誌でも赤ワインは連日脚光を浴びました。寿し屋や和食専門店にも赤ワインを常置しだし、日本旅館も置くようになりました。一方70才を越えたお年寄りが赤ワインを薬がわりに毎日飲んでいます、というようなことを方々で聞くようになりました。需要が増えれば物の値段があがるのは定理です。しかしこのところの赤ワインブームは少々異常に推移したように思います。ワインの輸入業者や取扱小売店は大量に仕入れて大きな利益を得ようとして競争して仕入れに出かけて行きます。日本の食卓にワインが浸透することは大変歓迎されることと思うのですが、しかし行き過ぎも困ったものです。中にはビンテージの良年物を買い漁って、市場にも出さず値上がりを待つ業者も出てきました。こうなると投機です。どんなに超有名銘柄のボルドーの赤ワインであろうが商品が投機化するのは良くないことです。かつてのオランダのチューリップバブルのように人々を間違った迷路に導いてしまうことにもなりかねません。私は今ボルドーを買入れるのを控えています。そうです。高くなりすぎれば買わないことです。もっと高くなるからと言ってどんどん買うからさらに高騰するのです。いつの時代にも適正な価格というものがあります。長く続くブームはその根底に適正な価格が守られているという条件が必須です。このたびの赤ワインブームだってこれ迄知られていなかったチリやアルゼンチン、南アフリカからの安くて美味しい赤ワインが輸入されだしたことが引き金になっているのです。ワインの業者もそして私たちも適正な価格が維持されていつまでも赤ワインブームが続くように工夫しようではありませんか。

 さて私流赤ワインを一口だけ。今日はボトルの口を包うキャップシールの取り外し方です。ソムリエ達のを見ますとイラストの△印のところをナイフを回しながら切りとりますが、私流はもう少し上の◎印のところをカットします。理由はグラスに注ぎ終わってボトルを引く時にワインの滴をこぼしてテーブルクロスを汚さないためです。さらに高級ワインには△と◎の間にもブランドが刻まれているからです。赤ワインはロマンがなくてはなりません。
1999.11.17 Vol.023

○ついに「ワイン・バー」開設
ジャーナリストは私に「趣味は?」と問いますが、いつも私は回答に困ってしまいます。皆さんのような類の趣味がないからです。だから私は「ワインを飲むことかな、味噌汁をつくることかな、」と返事します。私のワインのコレクションは随分貯まりましたが、しかし私はコレクションをするつもりはさらさらなくて、貯まったものはビンテージが若いために時間を待っているだけなのです。あくまでも私はワインを飲みたい、よいワインに巡り合いたい、そう思って待っているだけなのです。

 さて、こうした私のワイン熱が昇華してしまって、とうとう「ワイン・バー」を作ることになりました。工期は僅かに十日間。建物は昔、事務所に使っていたプレハブがそのまま放置してありましたのでピンク色に塗り替えました。ピンク色に塗ったのはグレイ色に陥ろうとする世相に待った、をかけるためでした。

 家具や調度品は震災の時被災した店舗からとり出したもののストックがありましたのでそれを使いました。家具の大きさを計り、それに合わせた「内装」づくりです。世間の常識とは全く逆の順です。ワインセラーも飾り棚に温調・湿調を施して手造りしました。ステンドグラス、天井の照明、ピアノ等、カウンターと椅子以外はすべてそれら中古で賄いました。この店の目的は、三田屋の社員の「ワイン研修道場」です。ただ今、三田屋では(社)日本ソムリエ協会公認のシェフ・ソムリエである中島君以外にも5,6人ほどかなりワインに精通した社員がいます。私の希望は女子社員も含めて全員がワイン通になってもらいたい期待があります。それはある日、世界のナンバーワンソムリエとなった田崎真也さんの言葉に感銘を受けたからです。田崎さんは、「ソムリエはワイン好きより人好きであることが大切だ。」「ソムリエにとって最も大切なことは、ソムリエである以前にすぐれたサービスマンであること。」と言っていました。私たち外食産業にあるものにとって目下は戦乱の時代です。おいしいもの、をボリュームたっぷりに、清潔にそして安く、提供してゆかなければならないこと位誰にでも分かっていることです。だったら格差は何でつけうるのか、と問いかけた時、それは徹底した「サービス」以外にはない、と気がつきました。私はワインの世界の頂点に立った田崎さんからこぼれた、その言葉を拾いました。そんなことからこのワインバー「三田屋倶楽部・カーヴ ドゥ マルキ」が誕生しましたが、そうであるならばこれは実践道場でもあるべきだ、とさらにお客様に開放することといたしました。どうぞ皆様お気軽に起し下さい。価格も社員提供価格となっています。随分にリーズナブルです。カウンターの中のソムリエ中島君とワイン談義の花が咲きこぼれますことを楽しみにしております。
1999.1.1 Vol.024

○ブームに水差す、嫌な噂話も。 今回のワインブームはこれまでのワインブームとは違った様相が感じとれます。赤ワインは全国的なグルメブームにさらに美しい花が添えられたようで、又健康指向ブームにも一役買って出ました。これまでのように高級なフランス料理に添えられた一輪の赤いバラの花としてだけではなくイタリア料理にも日本料理にも中国料理やエスニックにもワインが飲まれるようになったのですから、今回こそは短いブームで終わってしまうことはなさそうです。その最大の要因は、良質なワインが手ごろな価格で飲めるようになった事につきると思います。私達レストランを営む業者、溯ってワインを販売する小売商、卸商、輸入商やメーカーはこの事を片時とも忘れないようにしないと行けません。この意味からすればチリ、アルゼンチン、南アやスペイン、イタリアなどのワイン生産国が、リーズナブル価格のワインを提供してくれた事は、大いに注目したい点です。

 一方フランスワインの高級品はブームをよいことに随分と値上げをしました。あまり高くなりすぎたために近ごろでは需要が急減したので一斉に安売りが始まりましたが、これはひとえに輸入業者、卸商、小売商に責任があります。「商業」ですから儲けたいというのは当たり前の思いですが、度が過ぎると必ず今回のようにシッペ返しがきます。中にはフランスから輸入したセコンド類を東南アジアに輸出して一級品のラベルにつけかえて再輸入している例があると風耳したりしますが、ひどいことをするものです。商人は何よりも顧客あってのものです。その大切な顧客を喰い物にするそんな業者を許すことができません。

 最近のことですが、94年の有名品を空けましたが、抜栓した途端に、おやと首をかしげました。期待した芳香がありません。案の定味も信じられないほど劣等品でしたが、もしかして、と疑いたくもなりました。よいワイン、期待を裏切らないワインというのは何よりも抜栓した瞬間の「香り」で大方判断がつきます。よいワインは必ずといってよいほどに抜栓と同時に当たり一面にえも言えぬ芳香を放つものです。ワイン愛好家のロマンチスト達はそれを「ほれぼれするような香り」「個性的な香り」「繊細な香り」「強く華やかな香り」「きわだった花の香り」「アカシアかリンデンかバラか、しゃくやくか、サンザシか、スミレか、」などといろいろと想像をめぐらせて、そして楽しむものなのです。赤ワインにはそんなロマンがあります。その純粋な人々のロマンを壊すような商人を捨ておく事はできないではありませんか。私たちは価格と見合わないワインをつかまされた時は即刻小売商の人にクレームすべきです。私は三田屋の店で使うワインはケースで買う前に一本を必ず味見します。それも先に代金を払って小売店の店長の目の前でテイスティングして、ダメなものは絶対に買わない事にしています。こうしたシビアな顧客側の対応こそインチキ輸入品をストップさせる力になるものだと思っています。今回のワインブームが永続するかどうか、は取扱業者の真摯な姿勢にかかっているように思います。次回はワイン愛好家が放ってきた「ワイン言葉」の数々をご紹介してみたいと思っています。ご期待下さい。
1999.3.21 Vol.025

○カーヴ・ドゥ・マルキにて
一通の素敵で、心強いお手紙をいただきました。三田屋倶楽部「カーヴ・ド・マルキ」に通って下さるお客様からです。その一部をご紹介したいと思います。

 「昨年末にオープンしたカーヴ・ド・マルキへはじめて行った時には、値段の安さのみならず、グラスで味わえるワインがなんと50種類以上、しかも料理も充実していて大変驚くとともに感動いたしました。さらにその後はシェフソムリエの中島さんが私の無理を聞いてくれて、ウィスキー、ブランデー等に加えて、ホワイトスピリッツからスタンダードなカクテルまで楽しめる素晴しい空間を得ました。又常連のお客様とも会話を通してお互いの情報交換も楽しい一時です。最近ではイタリアやスペインやチリやブルガリア、南アフリカのワインに加えてメキシコのワインまで品揃えしてあって、価格を越えた味わいに深い感銘を受けています。まるで一夜にして世界旅行をしたような時間を過ごした時もあります。このころではワインを女優や歌手に例える『言葉遊び』も楽しさのひとつです。「今、飲んだワインは軽く爽やかで清楚で、ヒロスエリョウコのイメージですね。」「次は存在感たっぷり、妖艶なカタセリノみたいなワインが飲みたいナ」「最後の一杯は優しく包容力を持ちながらも芯が通ったカトウトキコで締め括りましょう。」等とシェフソムリエとワイン遊びに興じたりしています。この贅沢で優雅な私の大切な時間、それはどんなリクエストにも応じてくれる、豊富なワインストックのおかげです。ありがとう。又行きます。(T)。」

 さて、話は変りますが一月に渡欧した小渕首相のフランスでのシラク大統領によるもてなしのワインメニューは次の通りでした。

【シャンパン】 ドン・ペリニョン90年
【白ワイン】 シャトー・オーブリオン88年
【赤ワイン】 コス・デストゥルネル90年

 随行した松浦大使は白ワインのオーブリオン88年については、「繊細で香り高く、素晴らしかった。」と評価しています。しかし赤ワインについてはボルドー地方メドック地区格付け第二級のコス・デストゥルネル90年でした。内容的には第一級の実力と云われていますものの、コメントはありません。ドン・ペリニョン90年のシャンパーニュは別として、これが最高のもてなしであったとは云えないような気がいたします。もっとひどかった事もあります。短命となった連立政権の羽田首相の時のミッテラン大統領のもてなしです。ボルドー・ブルゴーニュの二大醸地のものでなく、ロワール・プロヴァンス地方のワインであったとのことです。これを聞いて私は一瞬複雑な心境にかられてしまいます。私達があれこれと、例えばお手紙を下さったTさんのように優雅に女優になぞらえて純粋に愉しんでいるワインも政治の世界では驚くほど無口のうちにすっかりランク付けされるのかと思うと余りいい気分ではありません。少し余談にもなりましたが、私たちは「生き生きと力強くしかもバランスの良い」ワインを私たちなりに楽しむことにいたしましょう。Tさんどうもありがとうございました。
1999.4.1 Vol.026

○シャトーオーブリオン
「極上のワインのすぐれた性質は、自然の条件と人間との、絶妙な出会いから生まれる。

 それは経験という忍耐強い美徳のおかげというもので、すべての条件が重要である。どれかひとつの条件だけが目立っていてはならない。」私が六年前にシャトーオーブリオンを訪ねた時にプレゼントされた冊子の最初の頁に書かれた文章です。

 ボルドーワインの格付けが初めて実施されたのは1855年のことです。それはメドック地区の格付けであったのですが、例外中の例外として唯一グラーヴ地区のオーブリオンが第一級に冠された、という特別な経歴をもちます。オーブリオンは凡そ480年前に創業してから今日まで数々のエピソードを残した名門中の名門なのでありますが、アメリカ大統領トーマスジェファーソンの入れ込みようは凄く、フランス革命前夜にもシャトーを訪れたといいます。オーブリオンの赤ワインはカベルネソーヴィニョン55%、カベルネフラン20%、メルロ25%の配合でつくられますが、これは私の好みのコンテンツです。オーブリオンの最大の長所は香り、味、タンニンの丸み、スパイシー、それぞれがすばらしくバランスされていることです。それはオーブリオンのワイン造りにかける姿勢―最初に書いた、自然の条件と人間との、絶妙な調和」から生れたものでしょう。下に一例を記しますが、これを見ますとブドウの不良の年は生産量が極端に少なくそして価格は安い。逆にブドウの良年は生産量も多く価格は当然の如く高いのが分ります。82年と87年を比べてみて下さい。よく分っていただけます。私たちは価格の決定が需給のバランスで行われるのを当然と思い込んでいますが、オーブリオンの姿勢の純粋さには驚かされます。生産量の大小ではなく価格はブドウの良し悪しで決定されるのです。実に頭が下がります。私が全幅の信頼をオーブリオンに寄せていることが分っていただけたかと思います。

≪参考価格≫ 生産量
81年 28,000円 12,000ケース
82年 80,000円 19,000ケース
83年 31,000円 11,000ケース
85年 47,000円 17,000ケース
86年 38,000円 16,000ケース
87年 24,000円 10,000ケース
1999.5.11 Vol.027

○水の都 ヴェネツィア
日本文化も宿るホテル「ダニエリ」
黒澤監督の「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭のグランプリ作品となったのは1951年のことだった。1982年、映画祭は50周年を迎え記念行事として過去50年間のグランプリ中のグランプリ作品をひとつ選んだ。「羅生門」に決まった。招待を受けた黒澤監督は、通訳に当時フィレンツェにあって作家活動ををしていた塩野七生さんを連れ立って向いのリド島にボートで向う。塩野さんによればリド島の船着場は海に落ちるのではないかというほどの数のジャーナリストとカメラマンに迎えられたと言う。前置きが長くなったが黒澤監督のために用意されたホテルは「ダニエリ」だった。水の都の最高級ホテルはもちろんなのだが、1822年に改造してホテルになる迄は1300年代の後半に建てられた宮殿「パラッツオ・タンドロ」、かの有名なタンドロ総督の宮殿であったのだ。このホテルには数え切れないほど著名人が泊った。プルーストやコクトー。映画「ベニスに死す」はここを舞台としてつくられた。ホテルの屋根の色は言うまでもなく茜色だが、建物の壁は深いピンク色、大運河に面したスキャヴォニ河岸でひときわ人目を引くヴェネツィアで最も有名なサンマルコ寺院と広場はホテルと隣り合わせるという絶好のロケーションにあるのだ。今より10年程前、ダニエリに泊った三船敏郎をガイドした日本語を喋れるアントニオは偶然私を案内してくれたのだが、日本の三船は最高の男だと褒めちぎった。演技のことを誉めたのかと思ったが違った。彼は凄いチップ
をもらったらしいのだ。
話は戻ってダニエリではグランプリ中のグランプリの表彰を受けてリドから帰り着いた黒澤監督を見つけた宿泊客は全員が彼を出迎えて拍手を贈ったという。この宿泊客たちは黒澤監督がホテルに帰る迄の時間、全員がテレビ室で「羅生門」と「七人の侍」を観ていたとのことだ。この話を聞いて私はこのホテルに泊ることができた事に日本人として誇りを抱いた。翌日は胸を張って車で40分以上北上、「ヴェネツィアの庭」と云われる小さな水の街トレヴィーゾに出かけた。

 「トレヴィーゾ」イタリアの小さな都市の魅力
トレヴィーゾは「水の都ヴェネツィアの庭」といわれる中世からの小さな泉都である。むかしは運河を伝わってヴェネツィアから水行きできたらしい。今では車で40分ほど北上すると着く。「人間の寸法」という言葉がこの町にはふさわしい。町の端から端まで歩いても20分とかからないこの美しい都市トレヴィーゾを知る人は少ない。しかし華やかな世界企業となり、神戸と東京に店を持った「ベネトン」のことなら多くの人々が知っている。ベネトンはこのトレヴィーゾ郊外の田舎町の家族経営から出発している。ベネトンさん自身もこのフレスコの壁画を持つマルコポーロ時代の建物が現存する中世の小都市トレヴィーゾに生まれている。さて私のトレヴィーゾへの旅の目的はジェラートの機械を輸入するためであった。レストランで提供しているありきたりの国産アイスクリームに不満を抱いていた私は、「ピカ」店がイタリアから上陸しておいしいジェラートを売り出したのをきっかけに私自身本場の製法でジェラートを創りたくなった。寒い1月であった。カナダのナイアガラの滝の近くにイタリア人の知人がいる。彼は私の地ビール工場の醸造機をつくってくれた職人だったが、彼の郷里の里の友人がジェラートの機械をつくっている、と紹介をうけた私はすぐにヴェネツィアに飛んでこのトレヴィーゾにやって来たのであった。町に昔からある八百屋でフルーツや人参など野菜を買いこんで4日間特訓をうけた。この間私のオリジナルジェラートをいくつもつくることができた。今この機械は私のレストランの中で毎日おいしいジェラートをつくってくれている。因みにイタリアの最高の輸出産業は圧倒的に機械産業である。自動車でもファッション製品でもない。大規模ではないが小さな都市で夫々の魅力を打ち出す機械は世界第4位の大きな力なのである。
2001.3.6 Vol.043

○出会いは絶景
「出会いは絶景」とは加古川市出身の俳人、永田耕衣さんの遺された言葉です。永田さんは三菱製紙高砂工場に長く勤めて定年退職後は悠々自適俳句の道を一筋に歩まれ97才で死去されたお人ですが、詳しくは城山三郎さんの小説「部長の晩年」に書かれてあります。「出会い」とは言うまでもなく人と人との出会いです。人は生涯のうちに「絶景」だったと思わず叫ばずにはいられない人との出会いはあるものです。
ある年のこと、私は、函館のレストランでひとつの「出会いは絶景」のあしあとを見ました。レストランの名は「五島軒」。一流の西洋料理店です。今では店舗の数も増えて、名物のカレーを缶詰めにして全国の百貨店で拡販しているために一流の、という表現が聊か相応しくないかも知れませんが、日本の開国前後から外国人の出入りの多かった函館の街で唯一お行儀を正しくしなければ入れなかった店であったことは確かです。作家舟山肇さんがこのレストランをモデルに小説「あし火野」を書きました。小説に出てくる店の名は「雪河亭」でしたが五島軒では今も雪河亭の名をレストランの一部屋に残しています。舞台では森繁久弥さんが主人公を演じました。
五島軒の初代オーナーの名は若山惣太郎さん。初代コック長は五島英吉さん。私は二人の名を知った時、店の名が若山軒でなくなぜ五島軒なのだろうと驚き、考え込んでしまいました。五島栄吉さんは長崎の五島連島のお人で幕末は長崎で通訳をしていました。その後幕府軍に加わってあの有名な五稜郭で戦ったのですが敗れてロシアの教会に逃れたそうです。そのロシアの教会で下働きするうちにロシア料理やパンの焼き方などを体得、そして洋食のコックとなったのです。何の縁だったかどうか知りませんが、この五島さんと出会った若山惣太郎さんは彼をコック長に招いてレストランを開業したのでした。やがて昭和天皇をして名物「鴨のカレーライス」のファンにしてしまうほどの美味西洋料理店として、又格式を持って一流の名をほしいままにするのですが、この開業に際して店名をコック長の苗字の「五島軒」にした若山さんには余程の肝っ玉を有した人であったと思われます。或いは彼をしてそこまでに動かせた五島さんの人柄が偲ばれます。この屋号看板こそ「出会いは絶景」なのだと思ったものでした。さて五島軒の裏の一角に「メモリアルホール」と名がついたそこそこ広いスペースがあります。そこには古きよき時代のテーブルや椅子、ナイフやフォーク、ワイングラスなどの一品が陳列されてあって無論昭和天皇の使われた器類も大切に保存されています。私はその部屋の隅っこにさりげなく置かれた一枚の額に目が止まりました。そこには五島軒に真骨頂となる次のような文章がしるされていたのでした。芸術と料理「芸術と料理は同じ特質を追及するという点で一致する。」この至言は心からの愛情を惜しみなく絵と料理に注ぎ続けたフランスの世紀の画家であり、美味三昧の料理人の短い生涯を絵と料理で燃焼し尽したロートレックの心情を吐露した名言です。
フランス革命で宮廷貴族の邸宅を飛び出した料理人が初めてプロとしての腕を大
衆の中で試みて以来フランス料理は世界一です。
そして明治、大正、昭和初期とかつてフランスに次ぐフランス料理の伝統を誇った日本人の食生活のルネサンスにつながる運動に私たちも協力しましょう。一流のプロまでがインスタントの増量剤を使うのが通例となった現在、伝統を貫いて100年ひたすら手を抜かないで独創性を忘れずに、かつ伝統に忠実な料理を作った先輩のあとを継いで努力するということは一歩芸術に近づくことになります。一片の材料を無駄なく、有効に独創性のある誠実な料理(芸術)をつくろうではありませんか。供する側が料金をいただくプロならば、作る人、サービスする人が心ひとつにになれるものでなくてはなりません。たとえそれが「芸術」という感動的なものでなくとも。私にとって人と人との出会いも絶景ならば旅することによって発見する人と、人の心のふれあいも又絶景なのでした。
2001.1.1 Vol.042

○イタリア
夏のバカンスシーズンなどになると、ヨーロッパに駐在する日本人家族はいっせいにイタリアめがけて南下するらしいが、南下するのは日本人ばかりか他のヨーロッパ人も同じらしい。豊かな太陽を浴びて日光浴することも目的のひとつであろうが、何よりも彼らが楽しみにするのは「マンダーレ(食)」なのだそうです。無理もない。ヨーロッパの多くの国々は侵略や戦争に明けくれた長い長い歴史が自然と「保存食」中心の食体系をつくってしまっているからだ。ハム・ソーセージの旨いドイツにしろ、夜の食事は「カルテスエッセン」といって冷たい食事であるし、イギリス等はとり立てていうほどの料理は何もない。
ことし3月から始まった「日本におけるイタリア2001年」はイタリアの誇るルネサンス芸術をはじめオペラや、イタリアンテクノロジーの世界を一年がかりで紹介するが、何よりも力が入るのは「マンダーレ(食)」の世界だろう。パスタやワイン・オリーブ・チーズや生ハム等々世界中の食通が垂涎するイタリアの食材は世界でも稀な豊富さと内容を誇るものと言ってよい。私の場合もヨーロッパに行くたびに最後に辿りつきたいのはいつもイタリアなのだ。
さて、イタリアの国旗の赤・白・緑は「トマト」「にんにく」「オリーブ」だと冗談まがいにいわれたりするが、おもしろい。たしかにそれらはイタリア料理の三種の神器にちがいない。そしてイタリア人はもうひとつの三種の神器をもつ。「アモーレ(愛)」「カンターレ(歌)」「マンダーレ(食)」がそれだ。それらは彼らを世界にも稀な「人生の達人」に仕上げる。とりわけ彼らにとって「マンダーレ(食)」は人生の中枢を占める。何しろスパゲティなどは料理人などが凄い強権を持っていて、家人あるいはお客様がきちんとテーブルの席に座して、大げさに座して、大げさに言えば、右手にフォークを持っていないと料理しないという位だから食に対するこだわりは並大抵ではない。いのちがけで食べる、と言ってよいかも知れない。そんなイタリア人を、ある日本の女性が「スローフードな人生」とよんで本を書いたベストセラーズとなったには、日本ではすっかりと定着してしまったアメリカンフード=ファーストフードに何やらの抵抗感を抱いているからなのであろう。イタリア人の食事に欠かせないものはワインとパンの外に「会話」がある。レストランでは、お喋りでおなかをすかしているのかと思ってしまうほど、よく喋る。私達日本人と大きく異なる点だろう。彼らにとって「会話」は大切な人生の要素で人生の三種の神器に通じ合うものなのだ。だから注文の料理が少々遅くこようが何も気にしない。すでにテーブルにおいてあるパンをアテに、好きなワインがあれば何の不足もない。私達がイライラして待つのとは随分違うし、考えようによっては私達こそ大切な時間を使いこなし切れていない人生の未熟者と云えなくもない。日本人にとってイタリア料理と云えば「スパゲティ」ということになるが、実のところイタリアのレストランのメニューには、せいぜい2種類ほどしかのっていないのが普通です。大皿に盛られたオードブルの次に大盛のスパゲティで私達は満腹してしまうが、彼らには次の皿からが本番で、魚や肉料理、チーズに甘い甘い大きなドルチェ、そしてエスプレッソと何くわぬ顔で平らげてしまうのには傍からみていて驚異に感じてしまう。イタリア料理には一切砂糖は使われない。食材のもつ甘味とワインの甘味が甘さをつくる自然派には感心するが、その代りにドルチェ(菓子)はとびっきり甘い。
2001.6.12VOl.046

○オリーブオイルへの旅
おかしな言い方かも知れませんが、こと料理に関する限り「尊敬」できる国は4カ国で、フランス、イタリア、中国、日本だと思います。中世のころ、ある意味でフランスがまだ野蛮国だった頃イタリアのフェレンツェの大富豪メディチ家からカトリーヌがフランスの王家に嫁いで以来、料理や食卓の礼儀作法をすっかり取り込んだフランスは、その後料理を芸術の域まで昇華させて今日世界に名だたるフランス料理を築き上げたのですから頭が下がります。一方で、その師匠格であるイタリアにはなおさら尊敬の念を深くします。料理とは全く関係のないことですが、パリに地下水道が完成したのはローマに遅れること凡そ2000年、1880年代のことでした。これだけをもって両国の文化度を比較するつもりはありませんが、ヨーロッパにおける古代ローマ帝国の先進性には今さらに驚かされます。又、ダ・ヴィンチやミケランヂェロ等の大芸術家を生んだルネサンス期の文化の高さにはだんな敬意をもってしても足りません。私は、その文化度に応じて「料理」は発展してきたのだと、信じています。一方日本料理はその芸術性においてフランス料理に通じ、素材を大切にする点においてイタリア料理と共通している伝統ある優れた文化と思います。豊かな歴史を持つ中国料理はユニークです。もの凄い高温で調理するやり方は、素材のもつ栄養分を壊してしまわないかと心配するほどですが、料理に使う素材から料理の種類までまことに多彩で、芸術性も高く、味もよく、世界中で最も多くレストランを持ち、親しまれているひとつです。
さて、今月はヨーロッパの食の先進国イタリア料理のエキス分にふれる旅に出かけましょう。「オリーブオイル」についてです。
オリーブオイルはオリーブという実(果実)をそのまま搾ってつくる唯一のオイルです。臨界点(発煙点)が210度と数ある油の中で最も高いので、酸化しにくいというすばらしい特色を持ちます。オリーブオイルの多くは食用に使われますが、オイルマッサージ等肌の美容や老化防止にも使用されてきました。オリーブの歴史は古く、6000年前と言われていますが、古代エジプト時代には燃料、洗浄液、化粧品、ダイヤモンドの研磨、洗礼儀式、魚やチーズの保存など多方面に使われてきました。料理に使うオリーブオイルの重要性のひとつは「味に深みを出す」という点です。イタリアではパスタとトマトには欠かせない仲介素材ですが、肉や魚をオーブンにかける前に必ずオリーブオイルを塗ります。サラダのドレッシングにも必ず使います。私はエキストラバージンオイルにバルサミコ酢を和えただけで簡単ドレッシングを作りますが非常に美味です。オリーブオイルは近年、地中海料理のヘルシー性が科学的に認められて以来、日本でもアメリカでも輸入が急増しています。第二の重要性、それはヘルシー食品であることです。イタリア人が皿に残ったオリーブオイルをいかにも貴重なものとしてパンにしみ込ませている風景をよく見ますが、彼らの健康維持にとってオリーブオイルは欠かせないのです。オリーブオイルの効用を纏めてみますと次のように言われてきました。
(1)体の老化を防ぐ
(2)血糖値を調整し糖尿病を改善する
(3)消化機能を調整する(胃・小腸・胆のうによい)
(4)成長と骨組織のミネラル化を助ける
最上のオリーブオイルは「エキストラ・バージンオイル」と呼ばれて、生で使われます。サラダに用いたり、直接料理にふりかけて使います。これはオリーブの実が熟す早い時期に採取した一番搾りのもので、精製を施さない最もピュアな製品で、酸化度も1%と最も低いものです。味も香りも最上ですが価格もかなり高くつきます。お肌に直接塗っても美容効果があるという特別品です。最も多く市販され料理に使われている普及品は「ピュア・オリーブオイル」と称され、これは精製油とバージンオイルをブレンドしたもので、価格も他の食用油より少々割高ではありますが、大量生産のきかないものですから仕方ないと思います。
2001.7.10 Vol.047

○「良い食品づくり」とは
一連の食品関連不祥事が発覚して以来、メーカーも流通業者も必死になって、良い食品づくりに取組んでいます。
私のところは小規模で売上額も少ないので仲間には入れてもらっていませんが、「良い食品づくりの会」というのが発足したようです。ちらしに良い食品づくりの基本理念が書いてありました。私も同業のひとりとして又、消費者のひとりとして姿勢を正して読ませていただきました。基本理念は4条件、4原則からなっています。次のとおりです。
○良い食品の4条件
(1)何より安全  (2)おいしい
(3)適正な価格  (4)ごまかしがない
○良い食品を作るための4原則
(1)良い原料   (2)清潔な工場
(3)優秀な技術  (4)経営者の良心
これを読んで私は失礼ながら、これでは良い食品づくりはできない、とくに安全性を保つことからは程遠いと思いました。示された理念には何の間違いがあるわけではありません。しかし、一連の不祥事がナゼ起ったのかを本当に理解し、自戒した上でこの理念が作られたとは到底思えません。
なぜなら、当然にトップに掲げられなければならない「経営者の良心」がまるで付け足しのように4番目にしか書かれてないからです。
これでは本気に取組んでいるのかと消費者に疑われても仕方がないでしょう。私が基本理念の草案者だったら、1番目に「経営者の良心」を掲げます。そして「経営者の目の届かないものは作らない、能力以上のものは作りません。」と書き添えます。そしてそれ以上のことは書く必要もないでしょう。美辞麗句とも読まれる余のことは製造者として、商業者として又ひとりの企業人として当たり前のことなのですから。
私は食品の安全性などが失われてきた大きな背景には、「大量生産」「大量流通」という売上至上主義に基づいた企業の姿勢に原因があると思っています。「良い食品づくり」と「大量生産」とが両立するのは甚だ困難なことです。
消費者は賢明です。
製造や流通の最高責任経営者は、真に姿勢を直して「私の目の届く範囲のものしか作りません」と堂々と宣言しなければ消費者の納得は到底得られません。
右のことは私の年頭自警でもあります。

○お客さんの苦情について
朝7時半に机について、私が1番に目を通すことに決めている紙片があります。それは小さいながらも長い間私の机の中央にドカンと座っています。
その紙片にはあるリサーチセンターの分析データが記載されています。タイトルは「顧客の苦情」というものです。ここにあえてこれを記そうと思った動機は、常日頃従業員に対して口述するばかりではなく、読者の皆様に公表することによって私自身が今一度認識を深めなければならないこと、および従業員もさらに徹底して心懸けて欲しいと思ったからであります。店が、お客様を失う理由の最大は、店員の無関心な態度による、とデータは語ります。私たちは日常の私生活を正しくして、常識ある社会人として健康で自分の職業に誇りをもって、常に微笑をたたえた店員としてお客様をお迎えしなければなりません。データが示す苦情の実態とは次のとおりです。
・不満を持つ顧客のうち苦情を言うのは4%に過ぎない。後の96%はただ怒って二度と来ないだけで
ある。
・苦情が1件あれば、同様の不満を持っている人は平均26人いる。そのうち6人は非常に深刻な問
題を抱えていると推定される。
・苦情を言った人のうち56~70%の人は、苦情が解決された場合、その店に再び行きたいと考え
る。その比率は、解決が迅速に行われた場合、96%にまではねあがる。
・不満がある人は、それを平均9~10人に話す。13%の人は20人以上に話している。
・苦情が解決された顧客は、そのことを5~6人に話す。

○あと口さわやか
超一流の日本料理屋さんは、料理の最後に焙じ茶などの番茶を出します。抹茶や緑茶を使いません。理由は料理の味の余韻を家にまで持って帰っていただくためと教えられました。おいしすぎるお茶は折角の料理の味を忘れさせてしまうからといいます。つまりは、よい印象をいつまでも心の中に記憶していただこうと、又来ていただこうという知恵のひとつかと思います。
このことを良く心得た食事付きのホテルや旅館や民宿があります。それらに共通しているのは、ついお座なりになりがちの「朝食」に細やかな神経を使っています。帰りがけの「ビックリ」は強烈な印象を植えつけるものです。
「帰りがけ」「別れ際」の印象は「リピート」「再会」のかけがえのない大切なポイントだと教えられます。
団体客のバスを見送る玄関先で数人のスタッフ達がバスが見えなくなるまで手を振っている風景をよく見かけます。玄関先では同じ時に自家用車で帰りかけるお客さんもいるのですが、こちらの方は放ったらかし、というより背を向けて無視。どんなに立派な旅館であってもこれではよい旅館とは言えません。
レストランでも同様です。
入った時は「いらっしゃいませ」と多くのスタッフの声に迎えられます。気持ちのよいものです。ところが会計を済ましたあとの帰り際はどうでしょう。大方が無言か、目線がレジに向いたまま、お座なりの「ありがとうございました」という機械語でしかありません。三田屋も気をつけなければなりません。お見送りは店長又はその日の責任者が、お客様の方に向いて、できれば出口のドアーまで行って笑顔であいさつすること、徹底いたしたいと思います。
私は料理づくり、食品づくりは、おいしさの次に「あと口さわやか」を重視して作ってまいりました。これからも変わりません。まだもう少し食べたい、もう一度あの旅館に、あのレストランに行きたいという衝動はすべて共通していると確信するからです。

○お客さまこそわが師
この頃つくづく思います。私は何という恵まれた職場にあることか、と。
お客さまをお迎えするために、店をピカピカに磨いて準備します。トイレはどこよりも清潔に、庭の植木や花も活々と手入れしなければなりません。
お客さまをお迎えするために、いつも笑顔でなければなりません。笑顔は心身が快くバランスされた状態でしか生れない「内なるもの」ですから、日々の生活態度が大切です。
お客さまをお迎えするために、背筋をピンと伸ばした姿勢と正しい言葉使いや清潔な服装を心懸けなければなりません。喋り過ぎてはなりません。お客さまからたくさんのお話を聞く姿勢が大切です。
お客さまをお迎えするために、一社会人とし「常識」を弁えなければなりません。又一歩一歩前進しなければなりません。お客さまには、常に新鮮なイメージとサービスを提供し続けるために、私自身が進歩しなければなりません。前向きな姿勢、時には負けず嫌いの心持ちが必要です。
こうしたさまざまなことは、何も職場に限ったことではなく、私の人生にとって大切なことばかりなのです。それを私は自動的にお客さまによって導かれ、習慣づけられているのですから私は何と幸せ者だろうかとつくづく思うのです。まさにお客さまこそわが師なのです。

4月1日まさに溌刺とした5人の新卒社員を迎えました。彼らも又私同様に現場において貴重なお導きを、お客さまからいただくことになりましょう。今は若いが30歳はあッという間にくるものです。具体的な人生目標をもって力強く前進して、実のある1日1日を積み上げてくれるように期待しております

○庭づくり
瀬戸内寂聴さんの「寂庵」を作庭した庭師古川三盛さんの著書にこんなことが書いてありました。「石を据えつけた瞬間にこそ、石の真実は火花となって飛び散る。過去とも現実ともつかぬ白日夢に出会えることが、何よりうれしい」と。私にはこんなむつかしいことは分かりません。しかし庭師が石を据えつけた瞬間の感動とよく似たものは、私の作庭途中にもあったように思います。イエローハットを一部上場会社に仕上げた鍵山秀三郎さんは「掃除の人」として有名です。毎日毎日トイレや会社の内外をたったひとりで掃除してきて10年過ぎたころやっと少しずつ手伝う人ができて、30年目には全社員が手伝うようになった、とおっしゃっていますが私が店舗の駐車場だった場所を掘り起こして、ひとりで庭をつくりだしてからは、3日目か4日目には社員の誰かれなく手伝うようになっていました。無論、掃除と庭づくりとは違いますが、自分たちの周囲をキレイに整えようという心根には共通したものもあります。しかもキレイな場所はその後もずっとキレイに保とうという働きも生じます。ある社員は休日を返上してまで手伝うのです。何故か、と問うと、「好きなんです。この庭、端からみてると変な言い方ですが開放感がいっぱい詰まっているような感じ。日ごとにレストランがまるで違って見えてくるのが驚きで、うれしくてボクも作業の一員に加わりたくて。」といいます。
私が好きで買ってきて据えつけた石像を見て彼は突差に、「ボクに名まえをつけさせてください。ホッコリ君、この庭は“ホッコリ庭園”」と云うのです。私はうれしくなってきました。私が何度も何度も図面を書き直してつくり始めたこの庭は、何よりも彼の言う「開放感」が欲しかったからです。一流の庭師が一つの石に庭の命を託す気持ちと同様なものはレストランと連携した「開放感」でした。私なりに当初から注意してきたことは、庭が庭であってならない、庭は家の(レストランの)一部であって、庭は家に添うものでなくてはならないということでした。私はひとりではじめたこの庭づくりという作業が、終わってみれば会社のみんなで仕上がったことに何よりも大きな意義を感じています。そして「創る」ことの素晴らしさ、無から有が生じる瞬間の感動の深さは他に代えがたいものがありました。

○おくり物には食べ物を
「おくり物」は非常に大切です。大切だと考えるべきです。贈られた人は儀礼として「ありがとう」をいいますが、贈られてきた商品によって、あなたは「沈黙の評価」を受けていると判断して間違いないほどです。

さて、おくり物は「食べ物」がおすすめです。私が食品製造にかかわっているから言うのではありません。外国では贈り物といえば大抵、花やチョコレート等のお菓子です。正しいと思います。私は昔からあげるのもいただくのも形ののこるものは避けたいと思ってきました。飾り物など特に難しく、相手の気に入るものでなければ、家の隅に追いやられるだけで、ゴミよりも始末が悪く邪魔さえしてしまって迷惑なものです。
だったら消費してしまうものなら何でもよいのかといえば、洗剤やインスタント物では余りにも夢がありません。おくり物が生活援助であっては、相手に失礼な場合もあります。折角のおくり物ですから、ついでにあなたのセンスも売るべきです。流石に〇〇さんだなァ、と二重の評価を得るかも知れません。
遠方のお方には一番にあなたのいまの住いをウリとすべきです。その土地の「名産、名品」です。あなたの存在感、できればそれにまつわる物語りを添えたりすれば、あなたの文化度はさらに高い評価を受けましょう。
そして最も大切なことは、あなた自身が絶対の自信をもつ商品を贈ることです。当然あなた自身が「おいしい、安心」を確かめたものです。
くり返して述べますが、おくりものひとつであなたの感性ばかりか、責任感さえも大切なお方に伝わってしまうのです。

○人間の寸法の場所
大阪の吹田市泉町にパン工房「楽堂」という小さなパン屋さんがあります。レンガ石積みの窯で天然酵母パンをこつこつと焼き続けてきてもうすぐ20年になります。楽童の窯でパンを焼くのは主人の松永章さんで、店をキリモリするのは妻の節さん、そして3人の男の子達を育てるのも節さんの仕事。その節さんは、いまから11年前に1冊の本を書いた。「パン工房“楽童”物語」。
彼女の天真爛漫と云ってもよい自由な発想とダイナミックな生き方が、NHKのスタッフの心を打って、ラジオが二度までもこの本を朗読したので覚えていられる人も多いかと思います。
物語は章さんのパン屋開業前夜と次々生れてくる子たちに天手古舞するふたりの慌しい生活から始まります。パン工房が漸く5周年を迎えたある日、節さんは、とんでもない記念行事を持ち出します。それは一家揃ってヨーロッパ、パン屋巡り旅行をしようというもの。5年間、コツコツ貯めてきた積立て金をぜんぶ使う、1ヶ月まるまる店を休むのだ、といい出したのです。3人の男の子達(剛、直、拓くん)はまだ小学生の五年、三年、一年。旅行から帰ってきたら、お客さんが一人もいなくなってしまっているかも知れない、という不安も吹きとばすように節さんはどんどん話を進めます。夢みたいなアイデアを出す節さんですが、それを現実にしてしまうのも節さんの真骨頂、凄い行動力です。
子供たちの学校が夏休みに入る一日前に家族5人はついにヨーロッパ、パン屋巡りの旅へ出発します。
節さんには大切な旅の目的がふたつあったようです。そのひとつは「人間の寸法の場所」という、ある本に書かれた言葉の確認にありました。彼女が気になってしかたのないその言葉に出会ったのは、パンニュース社から出されたリオネル、ポワラーヌの書いた「ようこそパンの世界へ」という本の中でした。
ポワラーヌといえばパリでは知らぬ者はいないという名だたるパリ一番のパン屋です。(節さんに言わせると、世界一なのですが。)楽童にとっては、このパリのパン王の書いた部厚い本は、パンづくりの教科書でもありましたが節さんにとっては、経営哲学本であり人生哲学本であったようです。ポワラーヌの「人間の寸法の場所」に生きる、というたった一行の言葉が彼女をとらえて離さなかったのです。
彼女はこの旅行中に、どうしてもポワラーヌの店を見ておかなくてはならなかった、いやポワラーヌを自分の目で見ることこそ、この突飛な旅の目的の大事な部分であったのです。

パリに着きドイツやスペインなどを訪ね歩いて、再びパリに戻ってきた5人は、いよいよ最後の4日間の宿を、ポワラーヌの店の近くにとることになります。この4日間一家は毎朝ポワラーヌのパンを買いに出かけます。朝と昼の食事は4日間ともポワラーヌのパン。どうしても作業場を見たい節さんは、習いたてのフランス語を駆使して店頭のマダムに訴えますが、マダムは「いま、忙しくて中は見せらない。日本からもたくさんパン屋がやってくる」と云って、とり合ってくれません。そして最後の日の朝、帰国のあいさつを兼ねてパンを買いに出かけます。マダムはまだ居たのかと驚いたようです。そして夫の章さんのカメラに笑顔でおさまり、ニッコリと笑って地下を指差したそうです。節さんは飛び上がって喜び石の階段を下りて行きます。そこには何十年も昔から伝えられてきた石窯があり、右側に木の作業台があり、古い秤も見える、醗酵龍に入った生地がいくつも次の焼きを待っていた。窯の奥には白木の薪が積み重ねてある。ああ何と小さい、何と古い、けれども何ときれいな作業場なことか、と思わず言ったのは二男の直くんだったようです。
かくして節さんは「人間の寸法の場所」で生きるという言葉の現場を、彼女自身の目で、心で確めたのでした。同時に夫の章さんも、また3人の子達も店のあり方や、大げさに言えばこれからの自分の人生のあり方という大切なものをそこに感じとったものと思われます。(節さんの二つ目の目的は子達の情操教育にありました。)

「人間の寸法の場所」で生きる、ということについて、私もかねてから考えてきました。そして大いに迷ってもきました。ふり返ってみますと私が独立して事業を営んできた時代の大半は、日本の高度経済成長期であり、大量生産、大量販売が大手をふった時代でした。事業家とすれば、誰もがこの誘惑に引き込まれたことでしょう。

ポワラーヌの本には、こんなことが書いてあります。
「私たちのまわりでは、あらゆる品質が落ちています。専門家は、たしかに社会経済的かつ哲学的に、その理由を説明してくれますが、途方にくれるばかりです。今の時代だって、やる気になれば、品質を維持できるはずです。」
ポワラーヌは、バケットは焼かず、かたくなに本当のフランスパンである田舎パン、カンパ―ニュを焼いていたそうです。石臼で粉をひき、石窯に薪をくべ、すべては人の手を使って。
ポワラーヌはこうも言っています。「もし、つつましやかな外見が、文化的で精神的な記念碑を隠しているようなものがあるとすれば、パンはまさしくそのようなものである。」

今、私は、こんな言葉を思い出しています。
「労働者の仕事は機械に置きかえることが可能であるが、職人の仕事は、機械に置きかえられない。」
そして今、人間の寸法の場所で生きる、ということと、職人の仕事ということを重ねて、真の「ほんもの」でありたいという意志をさらに強くしているところです。人間の寸法を超える大きな職場や工場では、たくさんのものは作れてもほんものはつくり出せません。

私はステーキハウスという飲食業を経営してきました。ハムや生ドレッシングという食べ物もつくってきました。その間会社の大規模化という大きな誘惑がありました。誘惑に負けて手を広げすぎたと直感したとき、松永節さんの本とポワラーヌの本に出会ったのは、何とラッキーなことであったことかと、自分の幸運をふり返って感謝しています。
「ほんもの」
今の時代、何という重々しい言葉となったことでしょう。

○人間の寸法の場所②
イタリア人の小さな町の底力

三田屋の本社建物の2Fに、かわいいガラス張りの部屋がひとつあります。とても清潔な部屋です。そこには1台の小さな機械が据えつけてあります。ジェラート(アイスクリーム)をつくるイタリア製の機械です。三田屋の直営レストランのデザートの一品に出しておりますが、この機械は私がイタリアで直接に試して買ってきたものです。あれは7年前の冬のことでした。
カナダの友人が紹介してくれた、彼の郷里のトレヴィーゾという町は、ヴェネツィアから車で40分ほど北上したところにありました。ジェラートを試作し、試食するには余りにも冷たい1月でしたが、私は4日間この町に滞在してこの機械と格闘しました。
何ということでしょう。この小さな町の小さな工場でつくられたこの機械は、まるで魔法使いのように、一瞬にしてあの甘味と、さわやかなあと口と、えも言われぬ適温という三位一体の上質のジェラートをつくり出してくれたのです。
イタリアが誇る輸出の大宗品目が「機械類」であり、そのシェアーは4割近いのだということを知ったのは、後日のことでしたが、さらにこれらの機械は他国では仲々真似のできない特殊な機能を持つものばかりで、しかもこれらはすべてイタリアの中小の工場でつくられていることも知りました。私の滞在したトレヴィーゾは、人口8万ほどの小さな町です。むかしはヴェネツィアから運河づたいに舟で渡ることのできた水の町で、今では「庭園都市」と呼ばれるほど、実にきれいな町です。中世の名残りの城壁が中心部をぐるりと囲い、壁の内側は20分も歩けば一周できます。この中で人々は何も彼も用が足せます。イタリアの小さな町ばかりを歩いた陣内秀信さんは、この町をヒューマンスケール(人間の身体寸法)の町として一番にとり上げています。それにこの町はうれしいことに「グルメ」の町でもあったのです。
この小さな町を一躍世界中に知らしめたのは、今や押しも押されぬファッションリーダーの「ベネトン」でした。鮮やかな色合いの衣料品が人気となって現在、世界120ヶ国に6000店をもつほどに成長した「ベネトン」も35年ほど前は、この小さな町トレヴィーソの郊外、麦畑の広がる田園の真っただ中の家で妹とたったふたりで編物をつくっていたのでした。
ベネトンの中枢機能をもつ本社は、撮影スタジオ、華やかなショールームをいくつも持ち、そして大きな保管倉庫とアートスクール「ファップリカ」をもつのみです。染色や織りや編み、縫製はすべて地場の人々に仕事を与えます。地域に貢献するというよりも彼にとっては当たり前のこと、ベストの方法なのです。下請けする個々の家々は家族同然なのです。そしてその家族たちが又、個々にファッションメーカーでもあるのです。今では大企業となってしまったベネトンですが、実は小さな塊が集まったにすぎません。
イタリアの底力を見せるこうした小さな町は、トレヴィーゾに限らず、イタリア中に存在します。これらの町に共通していることは町の中にスーパーもコンビニも必要のない、職住が完璧に整備された人間の知恵の結集した町であることです。

○「生産量と価格の関係」
7・8月の冷夏で早場米の産地は収穫量少なく相当な打撃を受けている様子が、新聞などで報道されています。早くも価格が3割とか5割高のニュースもあります。冷害に見舞われた稲は、品質も豊年の年に比べればよくありません。政府はいち早く昨年度産の備蓄米全量放出を決定して、価格急騰を避ける手を打ちましたが、これは10年前、平成5年あの米価騒動の記憶が余りにも生々しいからでしょう。
ものの価格は需要と供給の関係で決定するのはいまさら言うまでもないことです。特にそれが生活必需品であれば、なおさらのことです。丁度30年前(昭和48年)オイルショックの時は、石油の急騰に加え、トイレットペーパー、砂糖、醤油といった日常生活になくてはならない物が売り惜しみや買い溜めも手伝って市場からすっかり姿を消してしまった状態などは価格を越えて深刻な問題です。
このようなパニックを避けるためには、消費者の姿勢も大切です。飽食の時代、米がなければパンやうどんもあるのではないか、と言った考え方もある意味において大切なことです。自分さえよければよい、といった姿勢で買い漁る人が多ければ、大衆は大変な迷惑をこうむります。
さて今回のタイトルは「生産量と価格の関係」です。既述のように、ものの価格は需要と供給の大原則のもとに決まります。生活必需品であれ、特殊な嗜好品であれ、高級ブランドのファッション商品であれ、皆同じことです。ものの数より、買う人が多ければ高くなります。
しかし、こんな生産者もいます。この生産者はマーケットとは無関係に自ら価格を決定して480年の伝統を守ってきました。
私がフランスのボルドーに「シャトー・オー・ブリオン」というフランスを代表するワインメーカーをはじめて訪ねたのは、奇しくも平成5年、日本の米騒動の年のことでした。そこで私はこのメーカーが、生産量ではなく、「品質」で価格を決定してきた事実を知りました。手渡された同社の立派なリストには、1811年産から毎年収穫したブドウの品質を刻明に記録してありました。(偉大なる年)(非常によい年)(かなり良い年)(よい年)(並年)(不調の年)(貧弱な年)といった短い言葉とコメントが添えてあります。私はそのリストと各年の生産量と価格とを照合してみて、驚きました。(偉大なる年)(非常によい年)は収穫量も豊富でワインの生産量も多いこと、そして価格はとびっ切り高い、反対に(不調の年)(貧弱な年)
は生産量は極端に少なく、価格も極めて安いという事を知ったからです。これを見れば同社が、生産量ではなく、「品質」で価格決定しているのが一目でわかります。つまりは、ここでは生産量と価格の関係は私たちが考えていることとは異なっているのでした。しかし、この(偉大な年)のワインは市場では引っぱりダコの人気。生産量と価格の方式は崩れても需要と供給の大原則は立派に生きているのです。米とワインとを並列できませんが、考えさせられた一日でした。

○「ヌードル大国、日本」
食堂かレストランか、呼び名はどうあれ、日本のどこにいても目のつく看板は、「うどん、そば」。
「うどん」は香川の讃岐や、秋田の稲庭、名古屋のきしめんなどのブランド品を筆頭格として、日本列島、どこに行こうが食べられます。
とくに讃岐うどんは一大ブームを興し、今や海外にも進出するに至りました。日本の伝統食品「そば」も又、全国区。うどんと異なるのは、そば屋の周辺に山や川や田園風景が見え隠れする風情のあるところでしょうか。
その「うどん・そば」が列島隅々まで点在するのに比べて、こちらは都会派と云ってよいかもしれません、その名は「ラーメン」。
日本各地が競って、「ご当地ラーメン」を打ち出しているのは、周知の通りですが、近頃では、ヨーロッパブランド商品並みの、「個別ブランド」化して、職人の技を競う店が流行りだしたようです。
高級住宅街として知られる芦屋の、国道2号線沿いは、ただ今異様な光景です。
右も左も、雨の中というのに行列のできるラーメン店が蝟集しています。聞けば、歩いて10分以内の距離に、30店ものラーメン店があるといいます。
さらに、ラーメンは一般家庭において、インスタント食品の筆頭格です。日清のチキンラーメンは今年発売開始45年ですが、過去最高の1億5千万食を売上し、22年目のカップヌードルも累計で2百億食を売るそうです。一方、はるばるイタリアからやってきた「スパゲティー」も、すっかりと日本の市民権を獲得しました。そして最後に、日本の風流をひとりじめにしてきた夏の王者「ソーメン」も忘れてはならない存在です。
こう書き連ねてくると、何と日本人は、「ヌードル好き」なのかと、改めて思い知らされます。
「麺」がもつ魅力、魔力は一体何なのでしょうか?

○「厨房」のある社長室
私のデスクは、本社工場のある建物の3階の事務所にあります。背には「独立自尊」福沢諭吉の扁額がかかっています。これは以前に、ある旧家からわけてもらったものです。
私がこの場所にいるのは、朝7時30分から1時間ほど、長くいて9時まで、といのが日課です。短時間しかいませんので、決済の必要なものは、出勤した時には、すでに机上にあります。この習慣は、もう長く続いていますので、スタッフ達はすっかり慣れてくれています。来客やスタッフ達との打ち合わせも遅くなっても9時までには終えています。
それからは2Fの私の部屋(社長室)へ下りていきます。そこには、横長の食卓が1台置いてあります。この食卓の上には、ある時はいろいろな食材が並び、香辛料やガラスコップや白いお皿が列をなします。ハム工場から出来上がったハムやソーセージなどの製品もならびます。ある時は百貨店や地方でピックアップしてきた他社の製品が置かれます。熟成が終わった自前の「地ビール」のテスティングも、この場所です。冷凍商品の味つけや味見、新製品開発もここで行います。
私のこの2Fの社長室は、コンロ、流し台、オーブン、まな板や包丁等が揃う「厨房」なのです。そしてこの部屋の「形」は、開業時の姿です。開業から何年間は、事務所も机もありませんでしたからモノを考えたり、作ったり、試したりはすべてコンロやまな板の前でやったものです。生ドレッシングもポンズソースもここで試験管代わりのガラスコップを使って試作しました。
ハムのオードブルスタイルも、ここで考えました。店舗のデザインのラフも、ここであり合わせの紙の裏に描いたものです。そして今も、同じことをしています。
この長年の習慣のせいなのでしょうか、あるいは現物を自分の手で触れてみなければ気がすまない性格のせいでしょうか、私の発想はすべてこの場所から起こるようになりました。そして物づくりに対する確信も、ここで得るようになりました。
聞けば、日清食品の安藤百福さんが、チキンラーメンの開発ヒントを池田市の粗末な小屋の厨房の中で、天ぷらや凍豆腐と取り組んでつかみ、そして93歳になった今も、毎日自社の製品を試食するのだとか。私には安藤さんの会社のように何千億円の売上げをする企業にはなれませんし、またなろうとも思いませんが、「厨房のある社長室」を永遠の居場所として、夢のある商品や企画を創り出していきたいと思っております。

○風景は「人」がつくる
一ページの村上信男さん(元帝国ホテル総料理長、専務取締役でもありました)の笑顔とありがとうのお話に、つい先日知った講演の内容とが重なりました。これはある雑誌に載っていた昭和40年代の話です。講演者は世界中を取材して回るフリージャーナリストの清水幾太郎という人でした。原文のままに紹介いたします。
「世界中を回ってみて、一番礼儀作法の悪いのは日本とアメリカである。日本はわれわれのお爺さんやお婆さんの時代では、世界でも有名な礼儀正しい国であったが、今は、アメリカと並んで、最も悪い国となってしまった。
例えばパリ。人混みの中を歩いている。ちょっと手がぶつかったり、肘が相手に触れたりする。するとすぐ“失礼”という言葉がはね返ってくる。電車や汽車に乗る、“どうぞ”と、ならんだ人が譲ってくれる。ほのぼのと心が和んでくるような気持ちだ。
北欧はもっとよい。デンマークの農村など歩いていると、道ですれちがった人が“おはよう”とか“こんにちは”とかあいさつをしてくれる、うれしいものである。
ソビエトのレストランに入ったときのことである。ボーイがナプキンやフォークを運んでくる。そのたんびに客は”ありがとう“という。するとボーイは”どういたしまして“と挨拶をかえす。だから食事を終わるまでに何十度”ありがとう“”どういたしまして“という挨拶をかわすか、わからない。」
私も随分と海外を回りましたが全く同感でした。すれ違う現地の人々が、全く自然といってよい微笑をおくってくれるのに、何とも快い気持ちになり、その日一日が本当に楽しくなったものです。日曜日の朝、公園を散歩する老夫婦も微笑みをたたえて“おはよう”と挨拶してくれました。整理の行き届いた、きれいな公園でした。三ッ揃の赤いベストが似合う老紳士と、そのままオペラ劇場にも行けそうな老淑女とが手をつないで散歩していました。この時私は、フッと思いました。風景は人がつくるんだな、と。ヨーロッパの主要都市の繁華街を歩いても、その思いが強くなりました。公園も街も、そして店も、風景や風情、雰囲気は人がつくる。人々の清潔な身なりと微笑や礼儀がそれを快いものにする力を持っているのだ、と。
「笑顔」と「ありがとう」の「習慣づけ」、今年一年かけて、私たち三田屋の大目標です。

○知られざる「昆布ロード」
日本列島のはるか南の島、「沖縄」、昆布の生産地北海道からは、最も遠隔地にありながら、昆布の消費量は日本一、一世帯あたりの年間購入量は約一キロで全国平均の2倍近い、と聞けば、誰もが驚きます。
平均寿命は食生活に左右される、という専門家は早くから長寿県沖縄の食材に注目してきました。「魚」「昆布」「豆腐」「豚肉」が沖縄の代表的食材です。
私はこの中で昆布と豚肉に興味を持ちました。昆布の消費量が全国平均の2倍なら、豚肉の消費量も一人一日当り全国平均70グラムに対し、沖縄は100グラムも摂っているからです。
昆布は豚肉と組み合わせでよく料理されます。豚肉に含まれる脂肪が昆布を軟らかくすると同時に、仕上がりもツヤがでて美しく、しかも昆布本来の旨味が上手に引き出されます。昆布にも豚肉にも多く含まれるビタミンB1が脳の老化を防いでイライラを少なくしているのは長寿の秘密の一つでありましょう。
日本は、おいしいダシに恵まれた国です。日本の旨味、五大ダシは(昆布)(鰯-いりこ)(鰹-かつお節)(帆立)(椎茸)で海の幸4、山の幸1です。(何れも天日干しされて旨味が引き出されています。)
この中、何といってもダシの王者、旨味の王者は「昆布」です。何よりも旨味に品格があります。私たちにとって欠かすことのできない植物繊維もたっぷり、ビタミン、ミネラル類も豊富で、例えばカルシウムは牛乳の7倍、鉄分に至っては39倍もあります。
カロリーが殆んどゼロというのも女性には必須の食品ではありませんか。(沖縄女性の平均寿命は昭和50年以降今日までトップを続けています)
さて、この昆布、沖縄の人は、いつ頃からこんなに食べるようになったのでしょうか。そして遠い遠い北海道から、どんなルートで沖縄に運び込まれたのでしょうか。
次の話はおそらく現存する昆布商としては最も古く、最も有名な老舗の第32代目店主の談話です。
「南北朝は60年くらい続きますが、南朝の軍資金の三分の一くらいは、昆布で賄っていたんです。昆布は北海道(当時渡島の国)で採れたものを、船で敦賀まで運び、琵琶湖を横切って、鈴鹿から吉野に入ってくるルート“昆布ロード”と呼んでよいと思いますが、これらを先代が押えていたんです。吉野からは琉球(沖縄)に売る。その先は中国です。八代目の小山秀朝という人がそれを担当していました。今でも鈴鹿山中のある集落には“昆布”姓が多いです。中国では、昆布の粉末を漢方薬に入れて飲んでいたようです。(「新日本永大蔵」より)
という話から沖縄の人が、この特別の昆布ロードを辿ってきた昆布を14世紀後半から食べていたことが窺われます。中国では薬用に使われていたというこの昆布を沖縄の人が重宝して食べ続けていることにはこんな歴史があったのですが、私たちは長寿との関係を見逃すわけにはゆきませんね。

○食料自給率と福井の一百姓
日本の食料自給率は40%です。(2002年度・カロリー換算)
品目別には、コメ(96%)小麦(13%)大豆(6%)野菜(83%)果物(44%)牛肉(39%)鶏肉(65%)魚介類(46%)が主なところです。
このうち穀物の自給率は惨々たるもので24%を切っています。主な先進国と比べてみて如何に悲惨な自給率かがわかります。
食料自給率は40年前(1960年度)は79%ありました。それが今日では半減しています。主食のコメは102%から96%へ(至近の統計では92.8%)と微減ですが、生産量は相当減っています。コメは40年前、全農産物の約50%を占めていたのが、今日の比率は28%です。日本の過去40年間は、高度成長、円高がありました。それと共に食生活は様変りしました。洋風化、ファーストフード化、外食が進んで、一挙に安価な輸入品が国産品を圧倒しました。人口も増えました。(人口は戦後58年間で5000万人増)
「地産地消」や「身土不二」といった言葉も死語となりつつあります。
自給率低下と輸入品に頼る体質は、ここでいくつかの問題を抱えはじめました。
(1)外交能力   (2)諸外国、とくに中国、インドの成長と食事情変化
(3)安全     (4)味覚の変化  (5)食育    (6)疾病等    です。
ここに、コメ農家の一人の百姓と名乗る(本人は百笑と書く)男がいます。福井県生れの彼は京都大学医学部に入りますが、考えるところあって中退します。そして修験道場として知られる奈良県の大峯山にこもります。3年間の修業を終えた彼は、郷里に帰って家業のコメ農業を継ぎ、平成4年、周囲の反対を押し切って法人化(当時は有限会社、現在は株式会社)
するのですが、彼が墨筆で大書してきた大版の和紙には絵も入っていて、こんな詩が書かれていました。
百笑(姓)という仕事は/流れる水の上に字を書くような/はかない仕事だ/しかしそのはかないことを/石に刻み込むような真剣さを持って/取り組まねばならない。
その彼が今、立ち上がりました。遂に市の多くの同業者を味方にして、農業ビジョン「ユーキピア構想」を打ち立てたのです。3つのビジョン柱は極めてシンプルです。①安全②食育③消費者と心を通わす。
構想の中には同市の廃出する生ゴミ再利用の循環型有機農業を一定規模の有機農場地区をつくって行うとも説明しています。
同じような実験が、すでに埼玉県、岩手県、岡山県の有志のリーダーシップによって始まっています。
私たちにとって大切なことは、「してくれる」のを待つのではなく、彼らのように「自分でやり始める」ことではないかと思います。中国に「愚公山を移す」という諺があります。彼らが「自給率」という山を動かし始めたのです。

○味わいのある旅
女性84.62才、男性77.64才、2000年度の日本人の平均寿命は男女とも世界一となりました。日本人の平均寿命が50才を超えたのはやっと昭和22年のこと。明治33年時は女性が36.9才、男性が35.3才だったといいますから、この伸びは驚異的です。
ところで、私たちは生きるために、毎日毎日食べ物の恩恵にあずかります。人生80年とすると日数にして2万9200日食べ続けることになりますが、この間に一体どれ位の量を食べることになるのでしょう。ある学者が調べて試算しました。その総量は一人当り50トン、主な中身は次の通りです。
米    6トン(ご飯11万杯分)    小麦   2.6トン(食パン7千斤分)
砂糖   300KG           油脂   540KG
豆類   2.1トン           魚介   3トン
卵    1.3トン(3万7千個)     牛乳   3.4トン(1万7千本分)
野菜   7.5トン           果実   3.8トン
海草   177KG
体重50キロの人は自分の1000倍もの食べ物を食べ、そして対外へ出すのですが、ひとりの人間が生きるということはこのようなことかと深く考えさせられます。そして食べ物に感謝の念を深くいたします。ところがどうでしょう。飽食の時代となって人々は食べ物を粗末に扱うようになりました。食べ過ぎていませんか。食べ残しはないですか。捨てていませんか。料理をしていますか。片寄ったインスタント物やファーストフードにたより切っていませんか。という今日的問題を多く聞くようになってきました。一生かけて、こんなに沢山の食べ物を食べるのですから、ひとりひとりがよい食事を心懸けたいものです。よい食事とはどんなことでしょうか。シンプルに言うならば、おいしい旬のものを、おいしく料理して、おいしく食べること、だと思います。「脳が食べる」のだということをよく耳にします。その通りだと思います。おいしく食べることは脳の働きによって消化、吸収をよくし、身体中に栄養を行きわたせるからです。ここに面白いデータがあります。沖縄の人はコレステロールが心配されている肉類をたくさん食べます。塩分の多い味噌を日本一食用するのは長野県人です。ところがこの両県はわが国の長寿県の一番と二番なのです。私たちは食べ物の単品にこだわることなく、バランスを重視しておいしい食事をとる習慣をつけなければならないことを教えられていると思います。

○美味料理の条件
ある料理家が、美味しいか、まずいかはしばしば食する人によって異なります。しかし「あの店は美味しい」と大多数の人が認める店の料理というのもあります。反対にマズイためにはやらない店だってあります。ということは美味しい料理というのが必ずある、という事です。だったらおいしい料理というのはどんな料理を言うのでしょう。北大路魯山人は「料理の美味は十中九まで材料の質の選択にあり。例えば中国料理では材料の功が6、料理人の腕前は4。日本料理にいたっては9と1.」と言い遣していますが、私も功の割合は別として第一に「素材」がよいこと。第二に「料理人」の腕前がよいこと、だと言ってよいと思います。しかし私達はこの二つの美味しさの条件を満たした料理を必ずしも、美味しいと感じない時があります。「食卓はミステリー」という本の中で、阿刀田高さんは、おいしさ、まずさを決定する条件の第一に、食べる側のコンディションを挙げています。作家の深田祐介さんも、こう言います。「美味の条件はいろいろあろうが、私はつきつめれば唯一絶対条件は、お相伴してくれる相手だと思う。」両者とも美味の条件の第一に食べる側のコンディションを問うているのですが、一理あると言わなければなりません。ならば、食べる人のコンディションが良好で、素材がよくて、料理人の腕前がよければ、料理はおいしいでしょうか。本朝食鑑という17世紀末に人見必大という人が書いた古典には「およそ食に形あり、色あり、気あり、味わいあり」と記述してあります。つきつめれば人は料理を食べ、五感すべてで「評価」する、ということです。五感とは、味蕾にある味細胞をもつ舌で感ずる「味覚」、鼻で香りを感じとる「嗅覚」、硬いとか粘っこい可塑性や温度を感ずる「触覚」、色や形を見る「視覚」、そして快い音か不快な音かを聴きわける「聴覚」の五つを指します。しかもその五感たちは、すばやく環境を知覚。インテリアのセンスはよいか、器は美しいか、コックやホールの人たちの動作はキビキビしているか、笑顔で働いているか。
こんな調査をした人もいます。食塩を最も多くとっている地方は東北や北関東、最も少ないのは大阪や京都などの近畿地方。動物性蛋白質(食肉など)を最も多く摂取しているのは近畿地方で、最も低いのが東北地方。ということは食肉などを多くたべない東北のひとは食塩(濃い塩味)を欲求すると。「食習慣」というのも味覚の条件から外して考えられないのですね。そう考えれば美味料理の定義、条件というのは甚だ複雑だと言わざるを得ません。

○ハムと塩の関係
19世紀、冷凍技術が発明されるまでの世界は、地球上のどこであっても食品の保存はその地の常温でなされたことでしょう。紀元前のことであれば尚更です。人々は戦いに明けあけくれる中での食糧の保存問題は、戦い以上に重要なことだったと思います。もし自軍の食糧がすべて腐ってしまったり、枯渇すれば、どんな敵にも負けたに違いありません。そんな情況の中で、「塩」は何物にも代え難い保存材であり、いのちの綱でした。塩は肉などの保存を可能にしてくれる唯一の物質でありましたし、それ以前に人間それ自体は塩なくして生存はできない動物です。人体の血液は0.9パーセントの塩分が含まれます。人間が海から生まれ出たという証明です。そんなわけで、古代ローマ時代は兵隊の給料に「塩」が支払われた時期があり、サラリーとは塩のことなのです。さて人間の生命の維持と大切な食品の保存に欠かすことのできない塩は、遠く紀元前のむかしから人間の体験と智恵とによって重要な食材であった豚肉に塩漬けする技術を身につけることによってさらに貴重でありました。北イタリア地方には紀元前5・600年ころすでに相当文明度の高いエトルリア人がいて、今日に伝わる最高級のパルマの生ハムをつくっていたと見られます。パルマの気候風土は生ハムをつくるに比類のない好条件を持っていたようで、それはアペニン山脈から吹きおろす風や乾いた空気、地下2000メートルから汲み上げる清水、豚に与える独得のエサとこの地に住む特異のバクテリアが、塩漬けされた豚肉に旨味成分を醸成した、と伝えられます。何しろパルマの最高級品は同地でつくられる有名なパルジャミーノ・レッジャーノというチーズの製造期間と同じくらいの、二年以上の歳月をかけて熟成するというのですから、とても日本では真似のできないハムなのです。ハムとはオランダ語で、もともとは「豚のもも肉」のことなのですが、現代ではその肉から骨をとり除き、塩漬けし、型にいれてスモークした加工品を「ハム」というようになりました。

○何をどう食べるか? その(1)
日本は今、「飽食」の時代にあります。食べ物があるというだけでありがたかった時代もありました。食べ物が充足されるにしたがって、食べ物も激しく進化(?)してきました。
インスタント食品。ファーストフード。
養殖魚。農薬にまみれた野菜。
太陽光に当らない干物。
数々の輸入食品そして遺伝子組み替食品。
工場生産の冷凍料理。
デパートでは中食市場が大賑わいですが、「手塩にかけた」あのお袋のつくってくれた三角おむすびのぬくもりは一体どこへ?
「医食同源」という言葉をよく聴きます。古代ギリシャのヒポクラテスは、「自然はすべての病気を治してくれる。」と。そうです「食」こそ医薬です。まちがった食生活が疾病の因なのですから。そう考えますと私達は正しい食事を心がける必要があります。
今日はその正しい食事のヒントをひとつご紹介しましょう。これは川島四郎という栄養学の大先生の教えです。川島先生はもう故人ですが、正しい食事の基本は「自然に添った食べ物を摂ること」とヒポクラテスと同意義のことを言います。そのうちのひとつ。それは人間の「歯」です。
人間には「門歯」が8本、「犬歯」が4本、「臼歯」が20本、合わせて32本あります。比率で言えば順に25パーセント、12.5パーセント、62.5パーセントです。門歯は野菜や果物を噛むための歯です。犬歯は肉などの固い物を噛みます。一番多い臼歯は穀物を噛みつぶすようにでき上がっています。
だからその比率で食品を摂りなさい。それが自然に添った最もよい人間の食事なのだ、と。

○何をどう食べるか? その(2)
何をどう食べるか?よく考えてみますと仲々にして贅沢なテーマなのです。これも飽食の時代、開かれた国際時代、機械工業時代がもたらした文明国の一種の悩みでしょう。
前回は自然に添った食事その(1)人間の歯の形と数に添った正しい食事のあり方を述べましたが、今回は「身土不二」について。
「身土不二」。京の山奥にもこの名のお菓子屋さんがあり、三田市の農協さんのパンフレットにもこの四字を刻んだ石碑の写真が載っていました。これは昔から伝えられてきた仏教語です。身(体)と土(生れた国や土地)とは一体である、一体であれ、ということ、即ち自分の住む土地(国)で産まれたものを、しかもその旬に、いただきなさい、という教えです。ところが現在の日本の食糧は六〇パーセント以上が輸入で、他国に依存し切った状態です。家畜の飼料に至っては百パーセントに近く、最も日本的な食べ物「ソバ」の原料だって八〇パーセントが輸入だと言います。今や土地(国)で産まれたもの、旬ものを食べることは非常に難しいこととなってしまっています。長野県第一位の沖縄も、第二位の長野も最近では近くにできたスーパーマーケットで簡単に調理できる加工食品を買うようになってきたと言われます。これから先も長寿県であり続けることができるかどうかは甚だ疑問です。最近「ファーストフードが世界を喰いつぶす」という物騒な名の本がベストセラーです。このアメリカ人が書いたこの本の内容が本当だったら、実に怖ろしいことです。私達は真剣になって食べ物を考えないといけません。外食もそうです。「工場」と名のつく厨房で大量に加工調理された冷凍食品を大型トラックが多くのチェーン店に運び、チェーン店はお客にチーンしてそれを出すのが流行ですが、それは食事ではなく「食餌」だと云った人もいました。私たちは食べ物同様に食事を真剣に考えたいものです。つくり手も産地もはっきりして人の手でおいしく料理されたものを、快い雰囲気の中でおいしくいただきたいものです。

○「水」について
近郊に、西国二五番礼所「清水寺」というお寺があります。
もう何年か前になりますが、お寺の売店で買った折りたたみ式の小冊子「食物で長生きする法」というのが本棚の中から見つかりました。
「心は神の賜もの。肉体は食物から出来上っている。事ほど左様に食生活は重要な課題である。」
最初のページにこう書き出した小冊子の次の項には、かなりスペースをさいて「水」のことにふれています。私たちは地球も人体も70%の水から構成されていて、しかも水の大循環によって成り立っていることを知っています。
著者は「水は霊と物質との仲介物。世界の始まりは水であり、水は大地の母であり、水なき処に生物はない。」と書き始めていますが、私もその通りだと思います。
少々古い言葉づかいですが、皆さんにぜひ読んでいただきたいと思って次に紹介します。
(1) 仙人は霞を吸うて生きるという。霞は微細な水分を含む空気のこと。霞は深山または 早朝だけ           
にある。それを吸う心がけが大切。
(2) 正月元旦の行事は若水を汲むことから始まる。若水とは清浄な若々しい水意。年中若水を飲
む工夫が大切。若水は先ず井戸の水から。
(3) 地下から涌く井戸の水、鉱泉、泉の水、岩水は陽水。雨や雪は陰水。沼や池水は止
水で死水。水道水は科学的に無毒で中位。
(4) 煮沸して湯ざましにした水は純水ではない。生水には生命が宿る。蒸留水だと草木は枯れ、魚
は死する。人間は生水を愛用せよ。
(5) 健康は快食、快眠、快便が基本となる。毎朝コップに二・三杯の清水燕下は洗面にひとしい。
胃腹の洗滌工作で便秘も快通する。それが快食快眠につながる。
(6) 一日一回の入浴は有効な健康法、清水を浴びるは更に有効。
(7) 人間は花と同じように生水を浴びたり飲むことにより新陳代謝を盛んにし、便秘を退散し吹き出
もの小皺を無くし美容を増す。

近年、地下から涌く井戸水については、山林の伐採と住宅建築あるいは工場建設などの影響を受けているため、著者の書いた昭和30年代とは大分事情が変わってきていることを承知しなければなりません。しかし、体内に占める70パーセントの水に思いをいたせば、「水」にこそ、深い愛情を注がなければなりません。
そして私たちは「水のように」生きる智恵と工夫が大切です。映画監督の大林宣彦さんが作詞した如水舘高校の校歌の一番は次のようにうたいます。
水、手のひらに抄えば てのひらになる。

○心配になってきた「カタカナ」の洪水
ことし平成十四年は、戦後から数えて五七年目となります。この五七年間、わが国の世相で何が最も変わっただろうかと考えますと、すぐに思いつく、というより目につきますのが、カタカナ文化です。ついうっかり文化と書いてしまいましたが、文化と呼ぶには少し抵抗も迷いもあります。それはとも角として街をあるいて目につくのがカタカナとローマ字です。コカコーラやマクドナルド、ケンタッキーフライドチキンやミスタードーナツ、最近どの街にも見られるようになったスターバックスというカフェ。イトーヨーカ堂や話題のダイエーやマイカル、マイカルの傍系はサティやビブレ、マイカルを一部吸収したジャスコはイオンに改名、スーパー業界はカタカナのオンパレード。コンビニエンスストアという舌を噛みそうな難しい横文字もすっかり市民権を得ましたがその名もローソンやセブンイレブンやファミリーマートとここもカタカナ。ソニーやキャノンやシャープは大先輩ですがこれらは今や世界的カタカナ企業。その会社名はファーストリテイリングといいます。
ローマ字の略号化もこのところ顕著。JRやITなどの民営化企業に追随したのが、日本道路公団のIHと農協のJA.昨春開業以来大阪の水際に旋風を巻き起こしたUSJ、水際にいまにも溺れそうなATCとWTC。きわめつきは三和・東海・東洋信託が大合同したUFJ銀行。かつての東西の大財閥だった三井と住友が合併したり、とまとやあおぞらだったり、銀行はそれでなくとも大変わり。それはさておきUSJとUFJと並べて書かれたらどっちがどうだかパニックになってしまいそうです。さてさてこの五七年間のカタカナ化、ローマ字化を私たちは一体どうみたらよいのでしょうか。「ファーストフードが世界を食いつくす」という本を当のアメリカ人が書いて話題を呼びましたがもうすでに洪水化したカタカナが日本を食いつぶしてしまわないかといささか心配になる昨今です。

○“カルシュウム”に注目
イギリス人は世界中で最もユーモアに富むと言われています。そして戦争をすると一番弱い、と。そんな温厚なイギリス人のイメージもフーリガンの登場で半減してしまいましたが、今日も紳士の国として、又サラブレッドの生産国として厳然たるのがイギリスという島国です。同じ島国の日本ですが、「土壌」の生いたちは全く異なります。ドーバー海峡に面した白い崖を写真などで見た人は多いと思いますが、あの白い崖はカルシュウムの色です。周知の通りユーラシア大陸は海底からセリ上がった土壌から成りたちます。日本の土壌は火山の爆発による火山灰でできています。従って日本の土壌にはイギリスの四分の一のカルシュウムしか含みません。育つ野菜の成分も同じです。強靭な脚をもつサラブレッドが育つイギリスの土壌はカルシュウムいっぱいなのです。
カルシュウムは骨や歯を丈夫にします。欠乏すると骨祖鬆症や虫歯の原因になります。
一方、何より注意しなければならないのはカルシュウム不足が引き起こす、「精神不安定」です。カルシュウムが不足しますと精神の調節作用が不順となります。怒りっぽくなったり、イライラが多くなります。ストレスがたまりやすく、キレやすくなります。
カルシュウムが日本の4倍もあるイギリスではユーモアに溢れた、温厚な人が多いのだ、と言われてきたのも肯けます。
カルシュウムを多く含む食品は、乳製品(トップはチーズで牛乳の4倍)、小魚、海藻類、大豆、アーモンド、貝類、ゴマ、緑野菜です。カルシュウムを多く含む食品はビタミンDと共に摂るのが最良の方法です。なにしろビタミンDの本名は「カルシフェロール」と呼ばれるように、ビタミンDはカルシュウムの運び屋(カルシ=カルシュウム、フェロール=フェリー)なのです。
臓物にビタミンDをもつ煮干しはおすすめです。ビタミンDの多いのは何よりも干し椎茸、鰯、にしん、鮭、まぐろ、ミルク、乳製品、さば、かつお、ますなど。そして日光浴です。

○気になるマクド価格
イタリアの北部に発した「スローフード宣言」は漸く日本のマスコミの中でもささやかれはじめられましたが、8月5日は片やファーストフードの代表格日本マクドナルドの「破格的価格宣言」の日となりました。
1個59円のハンバーガーは日本マクドナルドが創業した1971年以来の超安値です。創業時の価格は1個80円、それが2年続きました。その後徐々に値上がりして、85年には1個210円に達します。この14年間の値上げは130円となります。途中半額セール(65円)をくり返しながらもこのところ80円(これは31年前の創業価格)に定着していました。それを8月5日から59円にするというものです。それは、31年前の創業価格よりも21円安く、過去11年間も続いた高値に比べれば151円も安い価格なのです。率にすれば何と高値時代(210円)の僅か28パーセントで販売しようというものです。
報道によれば同社の既存店の売上げは2割方近く落ち込んでいるようですが、それにしてもこの破壊的価格は何としたことでしょう。同社は59円でも採算が合うと発表しますが、私たち物造りをする工業人の目からすれば信じられないことです。
余程の企業努力と効率化が達成されたのでありましょうが、一方では85年から95年まで11年間もの長い間、210円と言う途方もない高値で売ってボロ儲けをしたのではあるまいか、そして一部上場をも実現した、と批評する人も出てくるのももっともなことです。
この乱高下の激しいマクド価格を見て私は物づくりをする企業人の姿勢を、あらためて考えさせられます。激しい値引きや値上げは、如何にも自己中心的すぎる、言葉を荒くするならば、それは他人のフンドシで相撲をとる無責任な仲介商人のヤリ方、あるいは相場氏かと疑ってしまうほどのものです。消費者からすれば商品さえ変わらなければ安いに越したことはありますまいが、私にはどうにも割り切れない気になるできごとです。私がスローフード支持者であるからかもしれませんが。

○裏切られた二人のナチュラリスト
いつからだったかよくは記憶していませんが、かれこれ10年ほど前から、NハムがCMに使ってきたのは、日本代表する二人のナチュラリストでした。
北海道のヘソに当る厳寒の富良野に移住し、若い人たちと起居を共にしながら、富良野塾をつくり脚本家と俳優を養成する傍ら、テレビドラマ“北の国から”では21年前から子役らと共に、実生活さながらの超ロングライフ劇を見事に成功させた脚本家の倉本聡さん。倉本さんは三田市民会館でも講演したが、「長い間農業を基軸にしてきた日本を、今や商業が左右している。特にITは庶民の暮らしを激変させている。」「あとに引返すことが、そんなに怖いですか。」と成長一本やりの政策に釘をさしてきた。
もうひとりのナチュラリストは22年前から長野県信濃町の黒姫山山麓に住みついているC・W・ニコルさん。彼は1940年南ウェールズ生まれのイギリス人だが日本国籍までとって、日本列島の森づくりをしている。ニコルさんを取材したアウトドアライター天野礼子さんの記事を借りれば、「ニコルさんは荒みつづける日本の森を憂えて、17年前からたった一人でここに森をつくり始めた。アファンの森と名付けた森林は私財を投げ打って手に入れた4万5千坪。アファンの森からしみ出た一滴は、鳥居川となってニコルさんの書斎の前を流れる。そして千曲川となり、それは信濃川となって新潟平野で日本海へ注ぐ。ダムができるまでは、アファンの森までサケが溯っていたであろう。」Nハムはこの偉大なるふたりのナチュラリスト擁して、背景に美しき大自然を配し、そこへ自社のハムを置いて、「これこそ汚れなき自然派のハム」と消費者に訴えてきた。
このNハムが、世界的ナチュラリストと言ってよいこの二人を裏切る行為をしてしまった。人為が過ぎた「偽」の行為、これはこの二人が最も嫌ってきた行為であり、言葉であったのです。

○カフェハウス
もう今はありませんが、中座が焼けて復旧が望まれる法善寺横丁から、さほど遠くない路地裏の一角に、「カーネス」という自称コーヒー通のたまり場がありました。
通たちは、善良なる焙煎したての豆を来客分だけとり出して、すばやくミルし、旧式のネル布を使ってドリップするカーネスの老主人のたてる清澄な黒い液体の香りと深いコクに至福に酔うのでした。
「カーネス」。この名こそ世界で最初にできたカフェハウスの名です。1554年、今から凡そ450年前にトルコのイスタンプールに生まれました。カーネスは、ずばり「コーヒーの家」という意味。1600年代の欧州はカフェハウスの花が咲きます。1652年のカイロには300店のカフェハウスがあったといいます。カイロからイタリアへ(1645年)・ロンドン(1652年)・オランダ(1664年)・パリ(1672年)・そしてハンブルクには1679年と。
現存する最古のカフェハウスは、ヴェネツアのフローリアン(1720年)でしょうか。ローマのスペイン広場前の有名な「カフェグレコ」(1760年)も相当な古株です。
イギリスは、インドに入植した頃から紅茶の国になりましたが、それまでの主都ロンドンのカフェハウスと言えば、伝説に残る主役を演じたところ。1625年ギリシャ人によって開かれたカフェハウスは、またたく間に男たちの集会所となります。集会所はたちまちに紳士たちの重要な「情報交換所」と化します。やがてカフェハウスは、郵便局をつくり、証券取引所を起し、ロイズのような大保険会社まで誕生させてしまうのです。男たちは時間を忘れてカフェハウスに入りびたります。
こんな男たちに対して、ロンドンの妻たちは声を揃えて大ブーイング、カフェ排撃の市民運動ののろしをあげます。そして遂にカフェハウスばかりかコーヒーをも排除してしまうのです。
それにしてもコーヒーの魔性とも言える魅力は一体何なのでしょうね。

○プロテイン(第一人者)
島津製作所の田中耕一さん(43才)のノーベル化学賞受賞のしらせは特別にうれしいニュースです。
彼の受賞は、生体中のタンパク質の分析法を開発、細胞中でタンパク質がどのような役割を果たしているかを理解できるようにした業績が認められたものとのことです。
タンパク質は、英語でプロテインとよばれます。これはギリシャ語のプロティオスを語源としますが、第一人者、俺が一番偉いんだ」という意味です。
タンパク質は生物が生きる上で必要不可欠の役割を果たしている、というより私たちの身体はタンパク質でできていると言った方がよいくらい、人間とは切っても切れない関係にあります。俺が一番偉いんだ、と胸を張るプロテインの意味も肯けます。それゆえに田中さんの業績は世界から注目を浴びました。
「切磋琢磨」という言葉が一番好きだという田中さんは、「こつこつ」「黙々」の人だったと周囲の人々が口を揃えます。「変人」とも呼ばれたようですが、受賞インタビューで、エンジニアにとって最も大切なことは何か、という質問に対して、「99%の努力と1%のヒラメキ、」「こつこつとやってきて、突然道が開ける」と答えています。
彼が突然道が開けたその動機は、実験中のマチガイから生じたのだと言われますが、彼の偉さはそのマチガイをマチガイで通過させなかったところにあるように思います。彼はそのマチガッタ方法もひとつの正しい方法であったことを発見したのです。
話は変わりますが、3日後の10月13日東海クラシックで今季4勝目をあげたプロゴルファーの谷口徹さんは、優勝インタビューに際し、このように答えています。「人とは練習の質が違う。」と。驕りに聞こえますが私はそうでないと思います。プロテイン(第一人者)は、人には見せない「こつこつ」「黙々」、人とは違った質の「変人」たる練習(研究)があればこそかちとれるものであると思うからです。プロテインも天才も99%の汗がもたらすのです。

○水は流れて美しい
「瑞々しい」、とは「水々しい」、ということでしょうか。私たちの身体の中身の3分の2は「水」だと教えられてきました。赤ちゃんの時は80パーセントが水、老人のそれは50パーセント近くまで下がるのだと。
年を経るごとに、私たちの身体から減ってゆく「水」は、だんだんと私たちから「瑞々しさ」という若さ、新鮮さも減らしてゆくようです。
一方、私たちの血液の83パーセントは水分であるそうです。少し専門的になりますが、学者の説明に耳を傾けてみましょう。
「体内の血管の長さは9万6000kmと地球を何周もする長さが張り巡らされています。その中を血液が移動して大人では60兆個の細胞に動脈を通じて一刻の猶予もなく栄養が送り届けられ、静脈を通じて猶予もなく老廃物を腎臓に送り届けています。成人の場合、腎臓で1日に浄化される水の量(原尿)は180リットルです。体内には30リットル程度しか水がないのに、180リットルも必要であるということは、単純に計算しても1日に6回も体内を巡り循環利用していることになるのです。」「だから人体から水分が10%失われると生命が脅かされ、20%を失うと死に至ります。」
私たちの生命にとって水が如何に大切かということは、この説明だけで十分にわかります。しかも神秘的です。
そして私たちが住むこの地球も水が大循環をくり返しているのです。雨や雪となって天から下りてくる水は、森や田畑などの土に、いったん吸収され、地下層をくぐって川に注ぎ込み、川から海へ流れて行きます。そしてそれは水蒸気となって天に上り、又、雨や雪となって地上に下りてくるのです。
「水」を通して見た場合、この大自然の摂理と私たちの体内の神秘とは酷似しています。血液の成分が、海水の成分とよく似ているということを合わせて考えてみても、私たちは自然の一員なのだと、改めて考えさせられます。
この水の「大循環」という自然の法則は、私たちの日常生活の中でも歴然として生きているのではないか、と痛感させられた事例が起きました。
現在は更地となり、駐車場となっている場所に私の初期の店舗がありました。ある年のこと、この店のスタッフが3人、たて続けに交通事故を起しました。一人は命を落としてしまいました。私は、この店の中に悪霊がとりついたのではないかと、店の内外を、隅々まで見て回りました。店内は厨房もトイレもホールもきれいに清掃がゆきわたっていて、10年経った店とは思えないほどでした。店の外に出てみました。塀に囲まれた裏側には、ダンボールの空箱や廃油の缶が雑然として積み重ねてありました。これではいけないと整理しかかった時、それらの箱の下に発見したのです。それは本来廃水溝である筈の一部の溝が、油でゴテゴテになって詰まっていた汚い現場でした。当然水は流れていません。行き場を失った廃水が、そこで腐敗して溢れていたのでした。
私はすぐに処理し、水を貫通させ、塩と酒とで現場を清めました。私は誰に向けて言ったわけではありませんが、「もう決してこんなことはしません」と頭を下げて、つぶやいていました。
それ以降というもの、新築店舗の設計に当って、何よりも先に手をつけるのは「水回り」となりました。今日では清掃チェックは、先ず「水回り」がルーチンワークとなっています。
「水は流れて、美しい」
これは私の頭の中に書かれた標語です。この標語は、「人間のこころを映す」大切なものを抱えています。私たちは自然の法則の中に生き、しかも私たちこそ自然の一員であるとつよく思うからです。

○一夜で変身「飯塚店の庭園」
一夜で変身「飯塚店の庭園」
この頃、しきりに私の耳元に囁きかけてくる言葉があります。「すべてのものは うつりゆく
おこたらず つとめよ」という釈尊晩年の言葉です。
四月に九州から帰ってきて、その囁きは大きな声に変わりました。炭坑の町だった飯塚(福岡県)は、いまIT特区の認定を受けて、大変身しようとしている。私もおちおちしてはいられない。変らなければ、飯塚店も。
その強い思いに駆られて五月連休明け、私はボンゴ車に植木や花、レンガや石や道具類を満載して、西宮北インターを飯塚に向けて出発したのでした。深夜に着いた私は、翌朝8時から、早出してきた飯塚店のスタッフ3人と共に掘削を開始、そのうちに追って到着した2人の本社スタッフが加わって総勢6人が、石積から植裁にいたるまでの作業を、夜8時までぶっ通しの突貫工事です。飯塚店は正月の2日間以外は年中無休ですので、この日も営業です。多くのお客様が来店され、目を白黒させながら私たちの動きを珍しいものを見るように見守っていられました。業者に頼めば2週間も3週間もかかろうかという工事を僅か12時間で仕上げてしまったのですから、驚いたのは飯塚店の3人のスタッフばかりではありません。次から次へと変貌する庭をガラス窓越しに見た食事中のお客さまが唖然としてらっしゃいました。速いばかりではない。庭園全体がきちんと調和を保っているひとつひとつの植裁や石が拾もはじめからここが定位置なのだと主張しているように、うまくおさまっている。そんな出来上がりを見たスタッフ達は、どうしてこんな早技が可能なのか、図面も何も持たずにどうしてこんな調和のある庭ができたるか、帰る間際まで不思議顔で私をみるのでした。
私はこれまで庭づくりに限らず、モノ創りにおいて我流を通してきました。我流の主なものはスピードと無頼です。無頼とは従来のモノや考え方に補われないこと、定着や安定に固執しないことです。まさに我流の真髄です。27年前に三田屋の生ドレッシングやトマトベースのスープをつくった時、私は玄人の料理人に笑われました。しかしこの生ドレッシングもスープも27年間ずーっと変わらず、お客様に支えられ一度もレシピもさわることもなく今日に至っています。話は変わって今から15年ほど前のことですが、入江寛さんという有名な建築家と会食する機会がありました。当時入江さんは「無頼の花」と呼ばれた有名な建築家でした。入江さんは「創造性とは放蕩無頼の中にこそ存在する」「李朝の雑器の中には、とてつもない名品を発見する。それはおそらくスピードが創り出す”美“だろう。」とむつかしいことを言われましたが、何だかその時自分の性格を当てられたような気になって、それらの言葉をよく覚えています。私はスピードと無頼とについて、私なりにこう思っています。それは両方共に私を「無我夢中」の境地に導いてくれるもの、と。
「美を求めれば、美を失い、美を求めざれば 美を得る」その無我夢中が、美を求めながらも、美を求めざるの無我の心境に転換する力を持つのか、と
こうして一夜にして変身を遂げた飯塚三田屋の前庭でしたが、まだまだ変わらなければならないことはたくさんありあます。すべてのものはうつりゆく、のですから。

○人が集まる10ヵ条
もう20年も前のことですがこんな話を聴いたことがあります。アメリカの都市のある大銀行の預金窓口での微笑しくも奇異なる現象です。古い歴史を持つこの銀行の窓口は2Fまで吹き抜けの高い天井で、ホールは大理石の柱と床で広々として、映画のシーンで見られる荘厳な雰囲気です。預金窓口はその広いホールの右側にあり、預金者のために七ツの窓口が開かれています。窓口には1番から7番まで番号が打ってある。この話をしてくれたのは、この銀行を週1回程度利用している人なのですが、いつも2番の窓口だけに長蛇の列があるのだそうです。そしていつだって1番も3番以降の窓口も1人か2人の客しかいない。ある時その人は隣の3番窓口で早々に用を済まして、2番窓口に並んで待っている1人の婦人に、そっと聞いてみたそうです。「この2番の窓口は何か特別な窓口なのですか」と。するとその婦人は、「はい、特別な窓口ですよ、私にとって」とにっこりしながら短く答えます。「私にとって」というのが気になったその人は、「あの窓口の人は、ご親戚かお知り合いの人なのですか」と聞きます。答えは「いいえ」です。そして婦人は静かにこう言うのだそうです。「あの窓口の人、とても好きなの。いつだって私の名前を間違えずに呼んでくれるし、しかも何度も私の名前を言ってくれるヮ。3週間前に来た時だって”ご主人様のご病気如何ですか“って聞いてくれるの。病名だって、私が言ったのをちゃんと覚えていて。」
大阪ミナミの中心、「道頓堀」は、江戸後期から栄えてきた「芝居」の街から、大きく変貌しました。浪花座、中座、角座など五座を有して賜ったこの街には、川沿いに「芝居茶屋」が建ち、味覚を競い合って「食の大阪」の原点となりました。地方から出てきて一旗あげた人も多く、今も有名店が軒を連ねます。例えば、「がんこ寿司」の小嶋淳司さんは和歌山から「くいだおれ」の山田昌平さんは兵庫県の城崎から、「かに道楽」の今津文雄さんも城崎出身といった具合。そして今、この伝統ある道頓堀の商店会の会長をつとめるお好み焼きの「千房」の中井政嗣さんも奈良県の出身です。
この中井さんは「社会教育家」という異名を持つ人でもあるのですが、先ごろ「できるやんか」という面白い題のついた本を出しました。
中井さんは商店会の会長になって一番に、街のゴミを拾って回ったそうですが、これからもこの道頓堀が繁栄を続けてゆくためには、ここが、「人が集まる場所」でなければいけないと、商店会メンバーに「人が集まる10ヵ条」を書いた紙を配って呼びかけました。
(1) 「人が集まるところに」人は集まる。
(2) 「夢の見られるところに」人は集まる。
(3) 「噂になっているところに」人は集まる。
(4) 「良いもののあるところに」人は集まる。
(5) 「快適なところに」人は集まる。
(6) 「満足の得られるところに」人は集まる。
(7) 「自分のためになるところに」人は集まる。
(8) 「感動を求めて」人は集まる。
(9) 「自分の存在感を認めてくれるところに」人は集まる。
私はこの平易に書かれた中井さんの10ヵ条を何度も何度もくり返して読んでいます。余りにも当たり前のことが羅列してあるのですが、私はこの当たり前のことが、このようにきちんと整理して語ることができるのか、そして実行できているか、を自問自答しました。とくに(8)(9)(10)はどうだろう、と。はじめに書いたアメリカの銀行の窓口の話は、この中井さんの特に(8)(9)(10)、その中でも(10)の「自分の存在を認めてくれるところに」人が集まる、という項に触発されて思い出したことでした。人は誰だって、自分自身のことがいちばん気になります。言葉を変えれば、自分自身に一番深い関心を抱くものです。自分という存在、それを認めてもらうことほど快いことはありません。銀行の窓口で、自分の名前を何度も言ってくれる人、そして身内の話まできちんと覚えていてくれた人、こんな人に心を寄せない人はいません。私たちは多勢のお客さまを迎える時、「客」とう名の多勢としてひとくくりにして粗雑に応対していないだろうか。お客さまは、ひとりひとりなのだという当たり前だが大切なことを忘れてはいないだろうか。私は中井さんの「人が集まる10ヵ条」に、自問自答をくり返すのでした。

○人生を左右する「口ぐせ」
「現代人は何事もよく知っている。自分のことを除いては」(トインビー)
たしかに、一番よくわかっているようで、わかっていないのが自分のこと。自分のくせ、そして自分の口ぐせ。その口ぐせにもいろいろあって、「要するに」とか「結局」等という短いつなぎに言葉から、本人そのものの性格や考え方、あるいは人生そのものがモロにわかってしまう口ぐせもあります。
「自分の考え、それは言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣に、習慣は人柄になり、それは運命となる」と言われてもいます。平常の言葉即ち口ぐせは、人の運命を左右する大切な要素かも知れません。
「成功を呼ぶ”口ぐせ“の科学」という本があります。著者の佐藤富雄さんは昭和7年生まれですから今年72歳。医学博士、理学博士、農学博士の資格を持つ佐藤さんは、「口ぐせ」という習慣の大切さを読者に訴えます。「口ぐせ」は、あなたそのもの。口ぐせによってあなたが快活で未来を拓く力のある人が、あるいは陰湿で暗く将来性のない人かを他人から見分けられてしまいます。成功する人、しない人は口ぐせによって決まります。と述べています。本のおしまいに、「すぐに使える口ぐせ一覧」というのがあります。もちろん成功する人となるための口ぐせ一覧です。かいつまんでご紹介しましょう。

(感謝の気持ちを表す口ぐせ)
■ いつもあなたのために
■ ええことしよんなぁ
■ 長いおつき合いにしたいですね
■ これでまたひとつ賢くなった
■ 頼んでよかった
■ 最高やねー
■ あなたのおかげ

(夢を育てる口ぐせ)
■ イチとゼロはちがう
■ 幸せは歩いてこない
■ なんとかなるって、私はすごいんだから
■ 泣くも一生笑うも一生
■ 可能性はゼロではない
■ なるようにしかならない、でもなるようにはなる
■ 大成功、私はいつも運がいい!!
■ 強く思えば願いはかなう
■ 今のままでは今のまま
■ やってみれば何だってできるものだ

(自分と他人を励ます口ぐせ)
■ いつでも私はあなたの味方
■ あなたが気にしているほど、人は他人のことを見ていないものよ
■ 何とかするから、やってみて
■ できるじゃん
■ そうそう、そういうこと
■ 今日も一日すがすがしいね
■ 夜明けのこない日はない
■ ジタバタしないで、落ちついて。そうすればうまくいきますよ。

如何ですか。成功するしないは別として泣くも笑うも一生は一生です。同じ一生ならあなたを幸福に導いてくれる、口ぐせをマスターしてみませんか。

○人為が過ぎると、「偽」になる
私は今、自戒を込めて、これを書いています。
全国の温泉地を騒然とさせた、偽湯の問題も、美浜原発事故も私の所属する食品業界でかつて起こったさまざまな事故や不祥事と底脈相通じる問題です。
温泉博士と呼ばれて有名な松田忠徳さんは、著者のなかで、「温泉で大事なのは、生ビールと同じで”鮮度“だ。」と書いていますが、食品の安全は、まさに温泉湯と同じです。
デパ地下で発覚したスシ販売店の賞味期限切れレッテルの貼り替えは、鮮度を失った上に、さらに「人為」がありました。
日本を代表する食品メーカーである日本ハムや雪印食品が起した問題も同類の「人為」です。「人為」が過ぎて、重なり合うと、「偽」という醜い字に発展いたします。「偽」は、「いつわる」「うそをいう」「ごまかす」そして「だます」「あざむく」という意味をもちます。」
思えば、どんな商売も、お客あってこそ成り立つものです。生産者にしろ、流通を仕事にする人にしろ、自分の仕事の糧といってよい大切なお客を、「だます」「あざむく」行為は、自らの仕事を否定することに外ならないのです。
そうである筈なのに、何故こんなことが起こるのでしょうか。私は昨年一月の小欄で、雪印の不祥事が発覚した直後に発足した大手食品業者による「良い食品づくりの会」が発表した、「良い食品の4条件」と「良い食品を作るための4原則」というのを見て、猛烈に批判しました。それは、(ごまかしがない)(経営者の良心)という最も大切な項目が夫々の最後尾に、恰も付け足しのように書かれてあったからでした。
そもそも不祥事は、(ごまかし)や(経営者の良心欠陥)から起ったことではないか、賢明なる消費者は、経営者の良心や資質をこそ問うているのではないか、と憤りさえ覚えたからでした。
こんなことでは事故や不祥事が、おさまるわけがありません。ゆえにその後も連日のように「お詫び」広告が、新聞の隅っこに読めないような文字で載り続けています。
何故こんなことが起こるのか、その1つは「良い食品づくりの会」が示した欠陥理念にあるわけですが、それは換言すれば、「製造責任所在」を不明朗にしたままで、誰もが責任から逃れたがっているから、とも言えます。そして二つ目の原因は、これは食品業界に限らない日本企業全体、ひいては資本主義国全体の問題と言ってもよいと思うのですが、「経済至上主義」や、「大量生産」「大量販売」の弊害です。
私の体験を披露するまでもなく、ほんとうに「美味しい」ものは、大量に作ることはできません。大量に作れば、必ずマズくなります。大量に作り、大量に流通させようとすれば、保存や取扱いが少々粗雑であっても、それに耐えられる処置を施こさなければならなくなります。加えて売上至上主義、経済至上主義を貫こうとすれば、レッテル貼りかえのような「人為」が加わります。人為の反対語は「自然」です。「偽」の反対語は「真」です。即ち、大量生産や大量販売、そして売上至上主義は、自然からも真実からも遠ざかって、美味しさからも安全からも遠のくのです。私は「自分の目の届く範囲でしか物づくりをしない」を信念として、それを頑なに守ってきました。そして、製造責任の所在をはっきりさせるために、敢えて私の名前をラベルに印刷してきました。私は自分の名前の入ったラベルを見るたびに、消費者を「偽く」ものを絶対に作ってはならないと自戒の念を深く刻むことができております。

○えらい人より、輝く人になりたい
「若さの秘訣とは?ひと言で言おう。今を忙しく生きることだ、と。今を愉しみ、くよくよする時間がないほど、今に集中し、年がいもなく、忙しい人だと笑われる、こんな人は、決まって若々しい。」
最近読んだ鈴木健二さん(元NHKアナウンサー)の本に、若さの秘訣がこのようにわかり易い言葉で書いてありました。鈴木健二さんが対象にとり上げたのは、死ぬまで発溂として作家活動を続けた宇野千代さんでしたが、私たちの身近にも、こんな人はたくさんいます。私の知る範囲はたかが知れていますので、もっともっと多くの若々しい長寿者がいらっしゃる筈です。
100歳を越えてなお、若々しく活動なさっている音楽家がいます。今年の7月7日に100歳の誕生日を迎えた高木東六さんや、髙木さんの二つ先輩の指揮者中川牧三さんは、バリバリの現役、今日でも夢をいっぱいに持って活動され煌然と輝いています。
「青春とは、人生のある時期を言うのではなく、心の持ち方を言うのだ」とは、サミュエル・ウルマンという人の有名な言葉でしたが、宇野千代さんもそうであったように、このふたりも何歳になっても「若さ」持ち続けてゆく人だと思います。
私は、このように生涯を「青春」で生き通すことのできる人とは、一体どんな人なのだろうかと想像してみました。とても大雑把ですが、次のような人であるように思います。
(1) 自分の人生に積極的である。 
常に肯定的であり、明るく前向きである。
(2) 生涯の目標を持っている。
(3) すべてに夢と希望を持ち続け、努力している。
そして、このような人は、まちがいなく
(4) 動いている
―まずは動くー
企業の世界では、「実行しない決定は、決定ではない」という戒言があります。
どんな立派な目標を立てても、実行しなければ何も生まれないのですから当然のことです。西洋の諺にこんなのがあります。
「実行は現実を変える原動力になる」
「いたずらに考えるよりも、まず実行することが先決だ」
これらは、後の経営学者たちが、口を揃えたように同じことをくり返して語ってきました。そしてこう付け加えました。
「徹底した行動が、信念、自信を生む。」
私は、動くことによって、信念が生まれ、その信念を貫くことによって「勇気」が生まれ、その勇気が新しい原動力となって、現実を変える力となる。企業ばかりでなく、人生の成功者とは、そのような好循環をみずから創り出した人ではないかと思います。
例を引いてばかりで恐縮ですが、冒頭に紹介した鈴木健二さんの本には、こんなページもありました。
「けっして誤ることのない人は、何事もなさない者ばかりである。」なんでもきちんとルールを守り、安全に、無事に生きることをめざして生きている人はえらい人です。しかし、自分の夢に向かって、冒険する人は、輝いています。失敗しても後悔はしないでしょう。」「名手イチローは、ヒットなどの数字を追い求められることから逃れて、大リーグで野球の本来の楽しさを追求しようとしました。冒険とその成功の例だけれども、イチローの顔は、野球道の修行僧の顔に変わっています。」
イチローも松井秀喜も動いたのです。自分の夢や希望に向かって、先ずは動いたのです。
この動いた結果がどうであろうと、彼らは決して後悔しないでしょう。
私の場合は、父母からもらった性格が、「歩きながら考える」というよりも、「走りながら考える」方に近かったために、これまで連戦連敗と言ってよいほど多くの失敗を重ねてきました。しかし一度も後悔したことはありません。逆に今となっては、積み重ねた多くの失敗が、現状打開の大きな力となってくれていて助かっています。私も鈴木さんの言われるようにえらい人よりも輝く人になりたいと思います。

○「みんながしているから・・・」
先日新聞を読んでいますと、小さく囲ったコーナーに「国民性」に関するこんなジョークが載っていました。有名なジョークですからご存知の方も多いと思います。
ある船に英・伊・独・米・日の5人が乗っていた。船長は重くなった船の沈没を回避するため、各人を海に飛び込ませようとして画策して、先ず英国人に「紳士の君から最初に」とけしかけ、イタリア人には海底に美女がいる」とそそのかした。ドイツ人には「私の命令だ」、アメリカ人には「保険がカバーする」と言い、最後の日本人にこうささやいた。
「皆さんは飛び込みましたよ」
このジョークには何度も笑わされますが、そのたびに、ハッとさせられもいたします。
話は変わりますが、もう随分と前に聞いたお話です。私に話をしてくれた方は、1944年に英印軍により壊滅的敗北を喫したインパール作戦から命からがら生還した人で、代々続いた京都室町の老舗呉服問屋の社長さんでした。
「インドとビルマ(現ミャンマー)の国境線に近い辺境にいた師団には、食糧補給が間に合わず戦友が次々に餓死していきました。大きな体の人から順番に亡くなったんですよ。自分は背も低く元々ヤセていましたから何とかもちこたえることができました。」
「師団敗走中のある日、突如敵軍の飛行攻撃に遭遇しました。私はこの時突差に連隊が逃げる方向とは違う横道に逃げ込みました。連隊は一瞬にして全滅、私一人が助かったのです。」
「終戦後帰京した私の体重は30キロそこそこだったようです。私と一緒に京都に帰って来た生き残りの人がもう一人いらっしゃいます。あの有名なワコールの塚本幸一さんです。彼も私同様骸骨さながらでしたよ」社長さんは淡々として短く語られたのでしたが、おそらく胸の裡は複雑であったことと思います。しかし私はこのお話からかけがえのない大切なものを教えられた思いでした。
一つは、自分の選択は自分が決める
二つは、自分の命は自分が守る
三つは、皆んながしていることや方向は必ずしも正しいとは言えない
四つは、大きい固まりは突差の対応に遅れる。柔軟性にも欠ける
私の食品経歴は今年で36年、レストラン開業からは27年となります。この間高度成長期やオイルショックによる大不況、バブルやその崩壊という経済の大事変に出会ったのは皆さんと同じです。この繰り返す大きな景気の変動の中で私はあることと葛藤をくり展げてきました。その闘いは、私の内なる闘いでしたが、「企業を大きくするか、どうか、大きいことはよいことか、どうか」という私にとっては魅惑的テーマでした。折から世間はバブルに沸いていました。素人同然の人までもが大儲けしています。出入りの金融機関もさかんに拡張を推めます。
決心をしかねていたこの時、わたしはふと京都の社長さんから聞いたあのお話を思い出したのでした。
「今皆んなが、していることや方向は必ずしも正しいとは言えない」「大きな固まり(企業)になればその分自分の目も届かなくなる。設備に合わせて大量につくればよいものは作れないし、不況がきたらいっぺんに困ることにもなる。」
私はこの時、「やれるけど、やりたいけれどやらない」という選択は、ある意味で勇気のいること、自分はここで勇気をふりしぼったのだ、と自分自身に言い聞かせたのでした。そればかりか、私はここで一挙に大整理に取り組みました。一つは、レストランの数を半減にすること。二つはハム工場のより手動化とクリーンルームの充実のための大改修です。ハム工場は「手仕事」を増やしたことから自動的に減産となります。これが私のねらいでした。当時の景況は、言葉は悪いですが猫も杓子も儲かったバブルの最盛期でした。周囲は時代と逆行する私を「おかしな奴」と観たに違いありません。私のこの決断が生き残りの選択だったか、あるいは時代遅れの幼稚な考えであったかどうかは今日まで結論を得ませんが、この実行によって、三田屋のレストランの味とサービス、ハムや冷凍商品の製造の隅々まで私の納得する目配りができるようになったことだけは確かです。そして今、私が冒頭のジョークの船長に同じことを言われたら、「日本人にもいろいろいますよ」と笑って答えることができそうです。

○一年ひと昔
この一年間に、何があったか?
そう問われて、すらすらと答えることができる人は、おそらく数少ないのではないでしょうか。私も三ツ四ツは答えることができても記憶の中から消え去ったものの方が遙かに多いことに気づきます。
新潟中越地震や台風23号の被災地の方々の惨状をTVで観るたびに、まもなく10年になろうとする阪神大震災が甦ります。そして、もう10年なのか、と感懐を新たにいたします。しかしこの10年の間に世界で何が起こりましたか、日本で何がありましたか、あなたの周辺でどんなできごとがありましたか、と問われて、一体私は何を答えることができるだろうかと考えて見ますと、甚だ心もとないことに気がつきます。10年どころか、一年ですら忘れ去ってしまったことの方が多いのです。10年ひと昔は、今や「一年ひと昔」の感じです。「人生が、美しいのは、大切なのは、胸を打つのは、劇的なのは、それが過ぎ去るものだからだ」と言った芸術家がいたそうです。一人の人間の人生にとってこの言葉は、大いに慰められ、明日への希望や新しい生き甲斐を求める動機を与えられる至言だと思います。しかし社会全体を目に向けた時、私たちは、はっきりと記憶しておかなければならない大切な問題もあります。
西洋の諺に「時間が過ぎ去ってゆくのではない。われわれが過ぎ去って行くのだ」というのがあります。まさに今日の私たちの行状そのままです。TVはライブに世界の情報を伝えてきます、インターネットは甚だ無秩序に情報を拡散し、種々な新しい問題や事件を引き起こしています。時代は大きな節目のただ中にある感じがします。情報化社会にどっぷりつかった人間は、新たな情報を求めて、「時」の上を過ぎ去って行きます。そんなこんなで次々に折り重なり積み重なったニュースは、下積みを忘れさせてしまうのでしょう。あの日本の若者たちが燦然と輝いたアテネの感動すら、次々と伝わる重大ニュースの陰にかくれて、もう忘れ去られようとしています。
さて、私たちにどんな新しく大きなニュースが届けられようと、はっきりと記憶の窓を全開にしておかなければならないことを一つだけ書いて今年の締めくくりにいたします。それは私たちの住む国家が、6月末の時点で、政府債務残高、729兆円という過去最大の借金大国となってしまったということです。国民総生産(GDP)が約500兆円ですからその145パーセントも借金がある国なんて世界のどこを探してもないということを。

○「人間」、この大いなる矛盾なるもの
古くから私たち人間が怖れてきたものは、「地震・雷・火事・おやじ(台風)」と言われてきました。一括りに「天災」と呼んでもいいでしょう。天災が恐いのは、忘れた頃に突然やってくると共に、私たち人間の力ではどうにも避けようがなく、どうにも予知できないことを知るからでしょう。
今月17日は阪神淡路大震災から丁度10年目に当ります。辛うじていのちの助かった被災者も、全国からかけつけてくれた多くのボランティアの人も、遠くでTVや新聞を見る人も、これは天災ではなく人災だと冷ややかにうけとめた人も、すべての人々が真摯に願ったのは、人命救助でした。
私たちは誰しもが、川で溺れかかっている人を見かけたら、飛び込んで助けようとします。たとえ情況が自分のいのちを脅かすほどの急流であっても、あるいは飛び込む勇気のない人も泳ぐことができない人であっても助けたいという気持ちは同じです。
先日の新潟中越地震では、二歳の雄太くんの救出活動を全国の人々が、固唾をのみながら祈るようにTVを見まもりました。
「助けたい」という気持ち、これこそが私たち人間の自然な姿です。人間の本性です。どんな境遇に生まれた人であってもその本性はすでに生命に宿っているものです。
「いのちが大切」ということは理屈ではありません。世のどんな偉い科学者が、どのように論理的に解説しようが、この命題は、科学性や論理や理性で説明できるものではありません。これはそれ以前の人間の生命に宿る自然そのものです。
「生きる」ということも理屈で説明しなければならないものではありません。生きることと、どう生きるかということは異なります。
生きることの大切さは、いのちが大切だからです。
ところが現実の社会には、この人間本来の自然な姿からは大きく乖離、目を背けたくなる事件や問題が乱発しています。私の友人は地震・雷・火事・台風よりもっと恐いのは、今日では「人間」になったのではないか、と言います。大きな大きな矛盾です。
助けたい、いのちが大切という人間のその仲間が、その裏側で人を殺し合う「戦争」をし、さまざまな殺人、自殺が起る。そして未開発国での飢餓死や疫病死に知らぬ顔、一体これはどうしたことなのでしょうか。
このような「人災」と、突然やってくる天災と、どっちが恐いか、と問われたとき、友人の言葉が胸に迫ってきます。
この恐怖は、どこからか突然やってくる天災とは根本的に違います。この恐怖は私たちの日常生活のすぐ傍に、しかしいつもあるのです。天災時、人間は優しくなり、この世の美しさを知ります。しかし人災は人間不信や人間の恐さをさらに増幅します。集団下校などをしなくてはならないのは泣きたくなるほど悲しい現実です。
どうにも避けることも防ぐこともできない天災よりも、どうにでも避けることが可能な人災が、より恐ろしいというこの現実が、なぜ起るのか、なぜに存在したままなのか、そして「生きる」ということがなぜこんなにもむつかしくなったのか、私たちは一人一人がもっと真剣に考えなければならなくなりました。
人間は常に両極の緊張の中で生きています。
愛と憎 善と悪 聖と俗 理想と現実 分別と情熱 文明と荒野 物質と精神。
現実の問題として私たちは、この両極の緊張を避けて通ることはできないでしょう。大切なのは、これらを正面から受け容れながらも如何にバランスをとって生きてゆくかということだと思います。
この大きな課題に対して、今私が思いつくことの一つは、短い言葉ですが、「知足」です。世界中の人々が、「足るを知る」をいつも心にとどめて実践することで、少なからず恐るべき人災を回避できるのではないか、と思っています。

○ネット社会における「想像力」
数年前には名もなきベンチャー企業の一つにすぎなかったライブドアという会社が、株式市場を通して、ニッポン放送という歴史のある上場企業を手中に収めようという、これまでには考えられなかったことが、突然に起こったニュースを目の前に見て、その結着や良し悪しはどうであれ、時代はまさに大きな大きな波のうねりを伴って、変化の節目にあると考えざるを得ません。古い企業家からすれば、突然に空から隕石が降ってきた思いでしょうが、ライブドア側からすれば、極めて普通のできごととしてとらえているのが印象的です。
インターネット社会の成熟過程で起こったこのことは、私たちの従来の固定観念からの脱皮を促しています。インターネット社会は今後もどんどん進展して行くことでしょう。その進行過程で一体何が起こるのか、社会はどのようにして変化してゆくのか、私たちはこれまでとはまるで違う未来予測に想像を巡らせて行くことになります。
インターネットは情報の拡散を始めています。情報の拡散はインターネットの大きな使命の一つですから当然のことです。この動きは、これまでに何度も言われてきた通り、個人化のはじまりです。角度を変えて言えば、組織の崩壊や従来秩序の崩壊のはじまりです。ライブドアとニッポン放送の事件はこの一例にすぎません。
この傾向が好いことか好ましくないことかの判断は別としてネット社会の進展は、今後このような社会変化を容易に引き起こすということで、この勢いは、おそらく誰もとめることはできないでしょう。
歴史を繙くまでもなく、いつの時代も変化してきました。変化に順応してきたものだけが、生き残りそして今後もそうだろうと思います。
私たちは想像力を全開にしなければならない時を迎えています。と同時に「分別」を迫られています。
私たちの生活基盤は、衣食住です。この衣食住の素材はすべての自然から与えられたもので、機械がつくり出したものではありません。
私たち自身も自然の一員です。人間が創り出したすべての創造物は、この無尽蔵の自然から与えられた想像力によるものです。
私たちは再び想像力を全開にしなければなりません。そのスイッチボタンは、「自然の中にこそある」のだということを、しっかりと記憶を蘇らせる必要があります。そしてここは、如何に生きてゆくかということについて真剣に考えてみる時だと思います。

○「ウソ」と「真実」の間
私たち人間はみな、ひたすらに自分自身のため自分の幸福のために生きているのだと思います。家族のため、あるいは他人のために懸命に生きている人であっても、それも多くは自己実現のための善行です。
希望すること、欲望を持つことは、それらを実現するための重要な要素で、活力の源泉であり、生き甲斐であり、又本能であろうかと思います。
ただこの本能のあらわれ方がさまざまであるために、現実社会ではしばしば他との比較が生まれ、闘争が起こり、混乱が始まります。
そして、自分自身のため、自分の幸福のためという生きる強さが一方的に働いた時、「自分が見たくない現実は見ようとせず、見たいものだけを見てしまい」それを真実であると考える習慣を持ってしまいます。巷間の溢れるほどの情報に対しても同じことが起こります。「じぶんで望ましいものだけをとり出して、さらにそれに望ましいものだけをとり出して、さらにそれに望ましい色をつけて」信じてしまいます。だからでしょう。昔から「真実は単純ではない」と言われてきました。
今回の悲惨極まりないJR西日本の列車脱線事故の当初の原因発表にも、歪められた「真実」が自分に望ましい形として現れました。運転手と車掌の間で交信された「ウソ」も発覚いたしました。
「ウソ」と「真実」の間にあるもの、それは紛れもなく、自己防衛つまりは「自分」です。自分だけに望ましい形です。こうして私たち人間は、悲しくも、矛盾やウソを孕ませて「真実」をつくり上げようとします。
この悲しい現実は、私たちの日常の社会生活や企業の経済活動の中にしばしば数多く見られます。売らんがための誇大広告や虚偽広告は身辺に氾濫しています。顔の見えないインターネットの普及によってさらに深刻さが増幅されています。
JRの事故や中国の抗日運動さらにはホリエモンの登場など目新しいニュースの陰に隠れて、つい私たちは忘れてしまいそうになっていますが、日ハムや雪印そしてハンナンによる牛肉偽装の不正受給事件は本の近頃起こった「ウソ」でした。
「ウソ」が発覚したために一瞬にして伝統を亡失、会社自体も危くした三菱自動車やカネボウ、そして堤西武。ダスキンの肉まん事件もつい先日のできごとでした。こうした「ウソ」は私たちの目に見えるものばかりではありません。
「元祖」や「本家」を過大広告したり、売りものにしたり、明らかに過剰包装とわかる体裁ばかりを繕った商品に、品質の「真実」はあるのでしょうか。非道い例では、会社の経歴や代表者のプロフィールに虚偽を混じえてPRする企業さえあります。あるいは正しい商号を印刷していない商品、賞味期限を上包みにしか表示せず、包装紙を外して中身を取り出すと何もわからなくなってしまうセット商品、それらは業界に精通した専門家でなければわからないことが大半です。
私はその類のものを発見するたびに、自分の衿を正す機会を与えられたことに感謝する一方で、なぜ自分にとって唯一最も大切な顧客を蔑ろにするのか、不思議を通り越して憤りを覚えてしまいます。
目に見える「ウソ」目に見えない「ウソ」どのウソも「真実」との間に介在する「自分」がつくり上げるものであるということ、自戒としてしっかりと後継者にも伝えたいと思います。そして、できることならばほかの誰とも比較することのない独自のパーソナリティの確立を目指したいと思っております。

○贈り物
私は、贈り物を非常に大切なものと考えています。
あなたの大切な人、お世話になった人、お世話になっている人、これからお世話になる人、
贈り物をする相手はさまざまです。
それがお中元やお歳暮といった季節の節目にする贈り物であれ、お祝いであれ、お礼であっても、贈り物は、それを贈られた人が贈った人に対して「無言の評価」をするものだということをしっかりと頭に入れておくことが必要です。
贈られた人からは「ありがとう」とお礼の言葉があり、又お礼の品が届くこともあります。だからといって本当に喜んでくれたのかどうかは別です。いや、別だと考えるべきです。一般にそれらは「儀礼」だと思っておいた方がよいでしょう。
ゆえに贈り物は、ひとりひとりの相手に対して細かい神経を使って真剣に選ぶ必要があります。又そうする値うちは十分にあるのです。なぜならば、それによってあなた自身が、相手から評価を受けるのですから。
さて贈り物には「食べ物」をおすすめします。私が食品に携わっているからPRするのではありません。特別のケースを除いて、通常の贈り物は、後に形を残さないものを選ぶべきだと考えます。形の残るものは、非常にむつかしいものです。相手の趣味趣向や大げさに言えば人生観にさえかかわります。
だったら消費するものならなんでもよいか言えば、そうではありません。明らかに生活支援物資であるとか、インスタント物は、相手に失礼な場合がありますから要注意です。
折角の贈り物の機会ですから、この際、あなたの「センス」を大いに売るべきです。「さすが〇〇さんだなぁ」と相手があなたに賛辞をおくるシーンを想像して慎重に選んでください。
食べ物の贈り物は、先ず「美味しいこと」「健康によいこと」「安心であること」を基本にすべきです。昨今食べ物の「安心」は非常に重要なテーマですから、なるべく「造り手」のはっきりしている商品をおすすめします。有名な大メーカーだから、伝統の老舗だから安心とは限らないことは、すでにこれまでも何度もあった不祥事や食品事故からご承知の通りです。
遠方のお方には、あなたのお住いウリにすべきでしょう。住めば都です。「土地の名産・名品」はどこにもあるものです。これによってあなたの存在感が伝わります。そしてもしその名産・名品のいわれや物語りをご存知ならそれをぜひメッセージとして添えてみてください。あなたの文化度の高さが格段の評価を獲得するにちがいありません。
そしてもうひとつ重要なこと。それはあなた自身が絶対の自信をもつものを贈ることです。当然あなたが「おいしい、体によい、安心」を確かめたいものです。
最後にもう一度。贈り物ひとつであなたのセンスや人柄、もっと言えば責任感や人生観さえも大切なお方に伝わってしまいます。ということは、この機会を利用してあなた自身のそれらを積極的に売り出すチャンスであるということです。

○「接客サービス」は自己実現
接客サービスの良し悪しが話題に上がる時、いつもイの一番に出るのが「笑顔」です。笑顔でお迎えし、笑顔で接し、笑顔でお見送りすることがなぜむつかしいのか、私たちサービス業が抱える最大の課題と言ってよいほどのテーマです。世の中機械化が進んで玄関マットを踏むと自動音声装置が「いらっしゃいませ」と喋ったり、人間がいながらロボットが喋っているのかと間違ってしまうほど機械言葉を聞かされる経験をすることも多くなりました。ここには言葉あっても笑顔の一片もありません。笑顔の伴わない言葉を聞かされる時、私たちはとても不快です。
さて、この笑顔のむつかしさの第一は、ルールで決めたり、オーナーや店長などの指示や強要では決して実現しないところにあるようです。結論を先に述べるならば、笑顔は、「相手の幸福と自分の幸福を常に考えて、自分の職業と仕事に誇りをもち、自分は将来こうなるのだというしっかりとした目標を持って規則正しく健康な生活を送っている人」から自然に生まれ出てくるものだと思います。
お客様は、つくり笑いなどすぐに見破ります。笑顔は体の底から涌いて出てくるものです。そのことを理解した上で経営者は、従業員の全体を観て指導すべきですし、一方従業員は、「笑顔」を旗印として、自分自身の幸福のため、自己実現に向かうべきです。
と角、接客サービスは技術として捉えられがちですが、寧ろこれは精神的なものだと思うべきです。ただしどんなことにも基本があります。この大切な基本を平素わたしたちは案外忘れがちです。次に揚げるものは私なりに体験した大切だと思う「接客サービス心得」です。皆様のお役に立てれば幸いですし、三田屋の従業員にはこの機会にもう一度おさらいをして欲しいと思ってまとめてみました。

(玄関口)
当日の最高責任者がお迎えし、お見送りする。

(問題発生の時)
誰よりも先に最高責任者が対応する。迅速に。

(暇な時)
少人数の接客は最高責任者が担当する。

(心身のコンディション)
何よりも心身共に健康でなければ笑顔の接客はできません。睡眠不足は最大の敵。

(目配り、気配り)
お客様がいちばん不快に思われるのは、無視された時、やって欲しいことを
放ったらかしにされた時です。目配り、気配りと実行の確認を。

(接客態度)
(1) さわやかな態度で接しているか。
(2) お客様がお困りの時、すぐに声を。
(3) 状況に応じてきちんとお辞儀を。
(4) 商品知識は十分か。信頼をもたれる接客か。
(5) お待たせしている時、中間にひと声かけたか。
(6) 必要以上にベタベタしていないか

(身だしなみ)
(1) 清潔か(頭髪・爪・手・指・口臭)
(2) 服装は清潔か。機能的か。
(3) 靴(汚れていないか、服装とマッチしているか)
(4) 高価なもの、派手なものを身につけていないか。
(5) 香水をつけすぎていないか。

(言葉)
(1) 挨拶はタイミングよくはっきりした声でしているか。
(2) 「いらっしゃいませ」の次の一声を工夫しているか。
(3) 感謝が伝わるものの言い方をしているか。
(4) お客様と親しく会話するよう心がけて実践しているか。
(ベタベタはいけない)
(5) ほめ言葉、ねぎらいの言葉、おわびの言葉をいつも準備しているか。
(6) 発生発音、正しい日本語を使っているか。
(7) むつかしい専門用語はできるだけ避ける。
(8) 返事は明るく、大きな声で。

○「フランス料理の達人たち」
「料理は心です」
「いかに美味しく味わって頂けるか、いかに喜んで頂けるかが料理の真髄です」
といつもニコニコとインタビューに答えていた帝国ホテルの総料理長、丁稚奉公から同ホテルの専務取締役にまで上りつめた村上信夫さんが85歳の生涯を閉じられました。
「シェフコートを着ている以上は勉強だ」
と常に謙虚だったホテルオークラの専務・総料理長、小野正吉さんが79歳で亡くなられたのは大分前のことでしたが、日本におけるフランス料理の双璧と言われてきたこの二人を失ったことは残念でなりません。
しかし立派な後継者も生まれています。
「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三さん(51歳)がその一人でしょう。
北海道の増毛という日本海に面した港町で漁師の子として生まれた三國さんは、15歳で料理人を志したといいますから、三重県の志摩観光ホテルの常務・総料理長だった高橋忠之さんと同年齢でスタートを切った人です。
札幌グランドホテル、帝国ホテルで修業したのち、スイスの日本大使館の料理長として迎えられ、30歳の時には、もう「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業したといいますから、並の料理人ではありません。
「料理には地元の食材がいちばん」
と食材にとことんこだわるのは志摩の高橋さんと全く同じで、高橋さんの場合はフランス料理をやりながら志摩から一歩も動かなかった人です。
先日、社員を連れてオテル・ドゥ・ミクニの東京の本店へ行ってきました。店は曲がりくねった路地の多い住宅街の中にあって、店のたたずまいもふつうの住宅を少し改造した程度のものでしたが、中に入るやいなや、外観とは似ても似つかぬ光景に迎えられたのでした。多くの客は、どの席の人も至福の笑顔で会話を交し、料理の一皿一皿にみとれながら楽しく会食しています。皿に盛りつけされた料理のきれいさは形容の言葉を失うほどセンスに溢れ、味も素材の旨味を最大限に生かしたこれぞ「真味」と納得するものでした。
私はついパリの超有名レストランTでの苦々しい記憶を蘇らせて比較したものです。
Tレストランのあのゴテゴテしたしつこいばかりの鴨料理が一体誰に好まれるのかと再び腹立たしくなったものです。
話はスイスに飛びますが、今ヨーロッパで一番の料理店は「ジェ・ジラルド」というスイスにあるレストランだそうですローザンヌから車で20分の片田舎にあるこの店は古い村役場を改造した建物、入り口ではジラルドさんのお母さんとボーイ長がお客さんをお迎えするのですが、お客さんは世界一の店に来たということで緊張して店に入るそうです。店のインテリアは清潔ですが、得に飾りもなくとてもシンプル、客席は15テーブルしかなく、しかしコックは20人、ボーイも20人いる。料理については、どのお客も感動のあまりただ「おいしい」とだけしか言わないそうです。専門家の言葉を借りると、「いわゆるフランス料理のバターや重いソースとは完全にふっ切れた味つけで、魚などは身がプリプリしていて、思わず“あっ”と声を上げてしまうほどの軽快なセンス」(私のミクニさん評を代弁してもらっているよう。
このジラルドさんはサッカー好きの普通の少年で料理人になる気はサラサラなかったそうですが、いつのまにか不思議な天分を発揮し始め、旧来のフランス料理の枠を破って「新料理」を創り、ヨーロッパ一のコックの座についてしまった天才だと伝えられています。お値段は東京の一流どころの半額くらい。私もぜひ一度訪れてみたいが、何年も待たされると聞けば困ったものです。

○「食の安全」さらに厳しく
九月の初めに滋賀県の和菓子屋さんの作った生菓子の一つから金属片が見つかりました。私が驚いたのは、回収を余儀なくされたその一種類の生菓子の数が、40万個だったと聞いた時でした。この和菓子屋さんが作る製品は、おそらく百種類を越すことでしょう。それにしてもたった一種類の生菓子を短い間に40万個も作り流通させているのかと、その量の多さにびっくり驚天したものです。40万個もの生菓子は手作りできる筈もありませんから、機械生産に違いなく、機会には金属探知機をもついていたと言います。その探知機が何かの事情で機能しなかったのか、機能したけれどそれを職人さんが聞きもらしたのか、そのどちらかでしょうが、金属片は何ごともなかったようにパスしたことには違いなく、そのまま消費者に渡ってしまったわけです。
このことは業界の一例にすぎませんが、食品をつくる者として、私が最も恐れてきた問題です。この不祥事を避ける方法は一ツしかありません。それは大量生産をしないことです。機械文明はどうやら人間に量=数の魔力をいっぱいにふり撤いたようです。物づくりをするものはこの魔力にとりつかれないようにしなければならないと自戒を強めています。
一方、「食品表示」についても正しい姿勢でのぞまなくてはなりません。食品は何より安全でなければならず、そこに作為があってはならないものです。とりわけ自給率40%という輸入食品に頼らざるを得ないわが国の現状においては重要なことです。食品の履歴を生産現場に遡ってはっきりとさせるトレーサビリティーの開示も益々厳しくチェックされることになります。
農水省の消費・安全局表示・規格監視室は「食品表示ウォッチャー」の強化につとめ、すでに全国で数千軒を超える店舗を対象に、数千人のウォッチャーが監視し、報告をとりまとめているようです。消費者にとっては、ありがたいことです。
加えて、品質表示違反をした製造業者も販売業者も、企業名が公表され、さらに指示を順守しなかった罰金は、法人に対して従来の50万円以下から一億円以下と大幅に改められ強化されています。
又、レストランでは次のような表現もすでに禁止されています。例えば、「当レストランで使用している野菜はすべて無農薬です。」「当レストランのチキンはすべてオーガニックです。」など。
このような規則や罰則がなければ安全が保たれないというのは甚ださみしいことですが、食品の供給ルートの変化や身土不二・地産地消と言う生活体系が霧消した現在では、仕方ないことと受け止めざるをえません。
私を含めたすべての生活者にとって、生きてゆくためには欠かせない第一条件である「食」の安全は、人間の最低限のモラルとして格別のものであることの認識が必要であることを声を大にして申し上げ、さらに自戒を深めているところです。

○この20年
阪神タイガースファンには叱られるかも知れませんが、阪神優勝年(この20年で3回)には不思議なことに国内外で大きな事件が起きています。
丁度20年前の優勝年(1985年・昭和60年)には日航ジャンボ機が墜落して520人もの死者が出ている。そしてこの年の9月22日にニューヨークのプラザホテルで行われた先進5カ国の蔵相・中央銀行総裁による「プラザ合意」は、その後の日本経済を大揺れに揺らせた一大事件でした。この年から4年目に起った「バブル経済」の混乱収束は今日もなお日本経済を揺らし続けています。
一昨年(平成15年)の優勝年の春は、イラク戦争からはじまり、4月には、バブル以降株価が最安値を記録しました。平成元年3万8915円をつけた株価はこの4月に80%下落に相当する7607円となりました。クリスマス前にはアメリカでBSE牛が発見され、米国産牛肉輸入停止令がでて今日もそのままです。
そして今年。5月25日は阪神ファンの多い尼崎でいたましいJR列車脱線事故が起り、私たちの真近に住まわれた107人の尊い命が奪われるという大惨事が起きましたそしてインド洋やカシミールの地震や津波、アメリカのハリケーン禍。
それにしても、一昨年に続いてのリーグ優勝、気がついてみれば2位の中日に10ゲーム差の大差をつけた阪神の優勝に敬意と祝意を申し上げます。私は巨人ファンなのですが、近年の阪神というチームのあり方に、事業経営のあり方とくに「人を生かす」ということについてとてもよい勉強をさせていただきました。ありがたく思っております。
さて、表題の「この20年」は既述のように今から20年間前の「プラザ合意」に日本がふりまわされた20年であったように思えます。
「1985年」という本を書いた吉崎達彦さんは、日本の国運における40年周期説というものを採り上げて、次のように区分しています。
① 1868年から1904年
(明治維新から日露戦争まで)上り坂
② 1905年から1945年
(日露戦争後から第2次大戦まで)下り坂
③ 1946年から1985年
(戦後からプラザ合意まで)上り坂
④ 1986年から、2025年まで?
(バブル経済から???)下り坂
吉崎さんは「この区分が正しいとすれば、2005年に生きるわれわれは、長い下り坂をようやく半分まで来たに過ぎず、あと20年は下り坂に耐えなければならないことになる」と結んでいます。
たしかにバブル経済が崩壊をはじめた平成2年頃から今日までの15年間というものは、大型倒産が頻発し、阪神大震災’(平成7年)やニューヨーク同時テロ事件(平成13年)等の大事件を挟んで、急激な円高や戦後未曾有の金融不安が私たちを襲いました。
国債残高が4.3倍になったことも、零金利といってよいぎりぎりまでの超低金利政策をとってきたのも、すべてはバブル経済の収束のための国の政策でありました。そして今日に至るも超低金利策は継続され、国債はなお増発せざるを得ない政府の台所事情です。
超低金利継続はこの国債の消化のための(一説にはアメリカとの金利差を維持するために)窮余の策でしょうが一方ではとくに大企業の金利負担を大いに助けました。すでに倒産寸前にあった企業もこれによって一息ついています。リストラやたゆまぬ研究開発などの成果や中国特需などで史上最高の利益を計上した数百の大企業の元気のよいニュースが伝わってくるのも、この低金利の恩恵に預かったお陰です。逆に低金利によって入るべき利得が入らなくなったのが一般の預貯金者です。一説には年平均で6兆円も減って、十年続いて60兆円も。しかしながら、この預貯金者を含めた個人金融資産はこの20年間で2.8倍にも増えています。政府が安心して(?)国債を乱発してきた裏付けとも言えます。
そしてこの世界一の個人金融資産をあてこんでかどうか、東京、大阪といわず大都会にどんどんとノッポビルができ、都会の目抜き通りにはルイ・ヴィトンやシャネル、グッチといった海外の有名ブランド店が軒を並べ、百貨店もホテルもどんどんと増床と高級化、そして巷には、これでもかと言わんばかりに、焼き肉屋や回転ずしやラーメン店が新規開店。
3.4倍と急増した海外旅行者、週日のご婦人達のホテルのリッチなランチ風景などを目の前にして、これでも今、日本は「下り坂」の途中なのか、と疑いたくもなります。
しかし冷静になってみれば、やはり40年周期説の「下り坂」を思わないわけにはいきません。国債をはじめ政府と地方の借金の合計が1000兆円近いと聞き、これを返すのは国ではなく、国民ひとりひとりが税金を通して行わなければならないのだと知れば・・・。
ともあれ私たちは、阪神タイガースの活力と幸運にあやかって一日一日、一つ一つのことをていねいに処理して明るく生きて行こうではありませんか。

○ありがたいお客様の「声」
去る9月19日91歳の生涯を閉じられた政治家、後藤田正晴さんに、省庁内の部下に対する「後藤田五訓」というのがありました。
一、 省益を忘れ、国益を想え
二、 悪い本当の事実を報告せよ
三、 勇気を以って意見具申せよ
四、 自分の仕事でないと言うなかれ
五、 決定が下ったら命令は実行せよ
というものでした。これは私たちのような小さな企業にとっても大切な項目ばかりです。特に二、悪い本当の事実を報告せよ、という項は、ともすれば会社の浮沈にかかわる重要事です。
鎌倉で文明出版社を営む伊藤文明さんが発行している「月刊仕事の記録帖」は六、七年前から重宝して送っていただいてる小冊子です。この8月号には特別な説明つきの特集が組まれていて、それは「お客様の声は、全員が毎日記録する」ことの大切さが強く書かれてありました。私は早速、この実行を全従業員に呼びかけ、店長又は副店長に、その記録すべてを終業時にファックスしてもらうことにいたしました。まだ3ヵ月しか経っていませんが、私が店回りをして気づかない現場の生情報が、お客様の質問や要望、不満や苦情といった形で毎日毎日もり沢山知ることとなりました。
とは言えお客様の声がすべて伝わってきたわけではありません。と申上げざるを得ないのは、人は誰でも、たとえば自分のミスや管理不足などで起こした問題の事実をすべて率直に報告するとは限らないからです。
後藤田五訓の「悪い本当の事実を報告せよ」の実行は甚だ難しいことです。
ともあれ私は、全従業員を信頼し、その生情報からお客様の声を知り、またその報告から聞こえてこないお客様の声まで推測を働かすことができております。
一方、当「味わい物語」は来年の8月で創刊10周年を迎えます。18万部の新聞折込と折込地域外の方への2000部のDMをさせていただくほどに成長させていただきました。この小紙に設けた「喫茶去欄」はお客様の声や文化活動をご寄稿いただいてお客様と三田屋の交流の場です。
神戸市のKさんは創刊以来のご愛読者で大切な三田屋のお客様で、しばしばお便りや俳句、絵などをいただきます。今夏のおたよりは、神戸ハーバーランド三田屋にご来店いただいた時のものでした。4ページにわたる長いお手紙には次のこと等が詳しく書かれてありました。
「ビールは3種類のうちピルスナーがいつもうまい」「ご自慢のベーゼンドルファーのすぐ近くの窓際から二つ目のテーブルの椅子はガタガタしていて、隣の席の女性もそれに気づかれていたようです。もしかすると震災のために床に傾斜ができたのかもしれませんネ」「ついでにベーゼンドルファーの置いてある庭園はちょっと暗い印象です。」
私は編集室に届けられたこのおたよりを読んで専門家を連れてすぐに当店に出かけました。床はたしかに傾斜していました。地震の影響だと思います。この傾斜だとイスのガタガタは避けられません。私は全フロアーの改修を決め、11月中旬の5日間を思い切って休業いたしました。同時に「暗い」とご指摘のあった店内庭園の全面改装を施しました。とても明るく変身いたしました。庭園のメインは千葉県の草木染有名作家、戸井田美満子先生の染色画「富良野慕情」です。
こうして味わいの物語の10年のご愛読者のご忠告により私は助けられました。これは現場からは伝わってこなかった情報です。本当にありがとうございました。紙面を借りて、Kさんをはじめいつも貴重なご意見をいただく皆様に心から厚くお礼申し上げる次第でございます。

○ロースステーキを食べて体も脳も
森光子さん、85歳。とっても85歳のご高齢なんて思えません。あの溌溂とした身のこなし。背筋の伸びた姿勢、はきはきとした言葉づかい、それに絶妙なアドリブ。TVのコマーシャルや映画はまだしも、あのハードこの上ない舞台を何なくこなして、「放浪記」の林芙美子役を何と1700回も、凄いことです。そしてとうとう文化勲章を。昭和12年にはじまって以来女優さんで受賞されたのは、平成12年の山田五十鈴さんについでお2人目という快挙、拍手せざるを得ません。
この長寿森光子さんの元気パワーと頭の回転の良さについて、「はなまるマーケット」というTV番組がとり上げていました。折から番組は、「牛肉の効能」についてというテーマだったと思います。それによると、森光子さんのあの凄いパワーと頭の回転のよは、きっと牛ロースステーキのお陰なのだと思いますと司会者がコメントしていました。ご本人が「私は毎日欠かさずロースステーキを70グラム食べます。」と言っているのを聞いたことがあります。「こんなにハードな舞台をこなせるのも、セリフだって間違えずに覚えることができるのもきっとロースステーキのお陰、お肉って脳の働きにも随分いいんですってネ」とも言ってらっしゃいましたと。
*     *    *    *    *    *
いつだったか新聞に載ったこんな記事を思い出しました。それは東京都老人総合研究所というところが、都内の70歳の人を15年間追跡調査した結果を発表したものでありました。それによると「長生きのための条件」は、
① 血液中のタンパク質が多い
② 血色素が多い
③ 太り方は中くらい
④ 握力が強い
⑤ 短期の記憶力がよい
⑥ 運動の習慣がある
⑦ たばこを吸わない
⑧ お酒を少しのむ
⑨ 社会活動性が高い 
⑩ 牛乳をのむ
⑪ 油脂の料理をよくとる    の11ヵ条
又、100歳以上の高齢者は男性の100%、女性の80%が毎日欠かさず「動物性食品」をとっていた。
同研究所の柴田副所長によれば、長寿のためには、一日に「薄切り肉2枚50g」「魚一切れ80g」牛乳一本200ミリリットル」「卵一個」は食べるのが理想と。ついでに同氏は「人間に必要な栄養のバランスは、歳をとっても変わらない。好きなものを中心に何でも食べる豊な食生活が長寿のコツ」とコメントされていました。
さらに同氏は、日本人がこんなに長寿化(明治33年の平均寿命は女性36.9歳、男性35.3歳)した理由はさまざまであるが、肉からのタンパク質摂取量が明治に比べて20倍になったことが大きい、その根拠はタンパク質によって、免疫力、抵抗力がついて結核や乳幼児の死亡率が低下したこと、脳卒中が肉が入手しやすくなった昭和40年代から激減したことだ、と述べています。
そしてさらに、肉に含まれているアミノ酸の一種からできる神経伝達物質「セロトニン
」が体内に十分蓄積されていると、うつ病になりにくいという研究結果、又、肉に含まれているアラキドン酸という物質から生成されるアナンダマイドなる脳内物質は、幸福な気分をもたらせてくれる・・・とも。
思えば森光子さんの毎日のロースステーキ70グラム摂取は、ご本人にとって理想的な動物性タンパク質カバーであったわけです。もちろん森さんのことですからバランスよく緑黄色野菜もしっかりとっていらっしゃることでしょう。
森さんは色紙に「花はいろ、人はこころ」と揮亳されます。「人はこころ」、おそらく森さんはご自分の「感謝のこころ」を書かれているのだと思います。ご自分に関わりのあるすべての人々に対して、又食べ物や自然などあらゆるものに、そのこころをもって接してらっしゃるにちがいありません。ゆえにこうして心身ともにすこやかにパワー溢れる活動が明るく、前向きに続けることができるのでしょう。最後に私は森さんが身をもって示された「継続は力なり」にもうひとつの拍手を送りたいと思います。

○比較しない生き方
「ほかの誰とも比較することなく、ただ裸の自分を生きよ」
何かの本に書いてあったこの一節が頭の中にのこってもやもやとした日々を過ごしています。
「比較する」という言葉には、はじめて出会った思いがするほど私はこのことには無関心であったことに気づきました。あらためてというより、はじめてこの「比較する」ということを意識してみますと、これまでの私は、比較ばかりをして生きてきたと言わざるを得ません。そして今、「比較する」ことがよいことか、よくないことかの判断さえ朧な状態です。

父の事業の失敗から夜逃げ同然に移り住んだ三田市の仮り間は、トタン屋根が一枚ふいてあるだけでしたので台風で飛ばされ、十畳一間だけの住居が水浸しになった時、五歳だった私は無意識に雨の漏らないもっといい家に住みたいと思ったに違いありません。
小学校の校庭で弁当をもたされない私は、一人ボールを蹴って昼食時間をつぶしながら、ご飯が食べたい、皆んなのように弁当が食べたいと子供心に他の皆んなの家庭と比較していたに違いありません。
奉公先から長男が駄賃代りにもらってきた子豚にやる残飯エサを、バケツを自転車に積んで近所の病院にもらいに行く道で同級生たちに出会った時、俺もあいつたちのように自由に遊びたい、と何度思ったことでしょう。

成人したのちも、独立して事業を営むようになってからも私の人生は「比較」の上に成り立っていたようなものでした。(あのハムより旨いハムを造ってやる)(兄貴より多くの店を構えて、大きな会社にしてやる)(兄弟の誰よりも立派な家を建ててやる)
男ばかりの五人兄弟の末っ子に生れた私でしたので、とりわけ兄弟意識がつよく、ライバルとして比較してきたのだと思います。
比較は当然同業社や社会のさまざまなことやモノに向けて日常のこととして行ってきました。
そうして歳月が過ぎ、子供達も家庭を持ち、社業を手伝うようになってきて、少しばかり気持ちに余裕が感じられ出したとき、その冒頭の言葉に出会ったのでした。
「ほかの誰とも比較することなく、ただ裸の自分を生きよ。」
「裸の自分を生きよ」とは一体どうしろと言うのだろうか、珍しく深刻に考え込んでしまいました。
もしかすると、この言葉は、こんなことを言っているのかも知れません。
「比較ばかりしてきたあなたの人生は、自分の人生を生きたのではなく、他人の人生を生きてきたことになるのです。」
「そろそろ裸になって自分自身の人生を生きてみてはどうですか。比較しない人生を生きるのです。そうすればこれまで隠れて見えなかったことが見えはじめます。商品の開発も、店のサービスも、これからの事業の進め方も会社の新しいあり方も、当然あなたの人生も。これまでに思いつかなかったヒントが生れてきますよ。しかもとってもユニークな、あなただけの。」
こう思いながらもなお私は朧な心境の中に比較をやどしたままでいることに気づきます。

○場を清める
ことしの正月も、宝塚の清荒神(きよしこうじん)に清澄寺(せいちょうじ)にお参りしてきました。正月三が日の混雑をさけて、月半ばのウィークデーに行ったのですが、駐車場への道は長蛇の列、境内も都会のような大混雑ぶり、信仰深い人の多さにびっくりいたしました。
食品をつくり、レストランを経営するようになった40年前からは毎年欠かさずお参りしています。
荒神さんは火の神様、牛神さんは牛の神様で私には大切な大切な神様です。
私は荒神さんが大好きなのです。この「清荒神」の「清(きよし)」と、「清澄寺」の「清(せい)」というふたつの「清」の字が好きなのと、清の字の「きよし」と「せい」という響きがとても好きなのです。この語の響きは、私の耳より私の心が先に聞いてしまう感じがします。
私にとっての「せい」は、「清」であり「整」でもあります。清潔に、清掃、そして整理・整頓です。これらは荒神さんという「場」で私が感受したものです。
荒神さんはいつでも本当にきれいです。隅から隅まで、どこもきちんと整えられていて清掃が行き届いています。ここをお参りする多くの参詣客の誰ひとり、場を汚す人がいないということでしょう。
話は変わりますが、今日も多くの人々から偉大な教育者として尊敬され続けている森信三さん(明治29年生れ、平成4年没)という教育者がいました。
この森信三さんが、平成の日本人に向けた箴言は有名です。箴言の前に添えられたタイトルは、「家庭・職場・社会の再建三大原理」といものです。「再建」というからには、今の日本人は、今の日本は余程危ない状態になってきていると判断されたのでしょう。
その再建三大原理とは、
時を守り
場を清め
礼を正す                           です。
家庭においても、職場においても、社会においても、この三大原理は、そこに人がいる限り、人としてあるべき最低の要件でなければならない、と言われたのであり、その何れも危うくなった風潮を早く食い止めなければならないと思われたのでしょう。
ところで、「時を守り、場を清め、礼を正す」ことは私の関わる食品業界にとってとりわけ尊い教訓です。
「場を清める」ことは、清潔、掃除、整理、整頓ばかりか、「心を清める」ということです。
物づくり、特に人の口に入る食物をつくる者は、消費者の健康や生命を考えて「礼を正して」日々の仕事に専念しなければなりません。
ところが、最近起った食品不祥事は、そして多くの消費者にはまだ目に見えてはないものの厳然としてある不誠実な行為は一体何としたことでありましょう。
一例を上げると、品質表示欄に示される賞味期限などの日付の刻印が余りにもあいまいに見過ごされている実態です。
私の工場ではライン上で自動的に刻印されます。生産日の製品を包装ラインにのせると包装と同時に賞味期限が打ちこまれるシステムになっています。
ところが世間にはいろいろあって、どうにも腑に落ちない商品が野放しにされています。とくにお歳暮期などの大量出荷時期に目立ちます。
(1) セットされた商品の一つ一つになされるべき日付表示がついていなくて、箱がその上の包装物に一括スタンプ押印されているものや
(2) いつでも、どこでも押すことのできるスタンプ印や手書きのシールが貼ってあるもの
この両方は、正しい賞味期限を確定できません。生産日でなくとも、生産者でなく流通業者でも押すことができるからです。世間で騒がれる大きな不祥事や事件は、いつもこんな小さな悪習慣から起きています。おそらくこんな不誠実な習慣をもつ業者の工業は汚れているに違いありません。従ってつくる商品も当然汚染されます。
「場を清める」心がけは「心を清める」ことであり、大切な消費者に対して「礼を正す」ことです。
イエローハットの鍵山秀三郎さんの「トイレ掃除40年」は日本中で評価されています。
従業員が掃除に目醒めた時、会社は一流企業の仲間入りを果しました。
地方の一企業が、清酒日本一の企業を売上も利益も追いぬきました。大分の麦焼酎「いいちこ」の三和酒類です。この会社では朝7時45分から8時までの15分間全員で工場を掃除するのだそうです。

○元気の「気」・病気の「気」
日本語のなかで、一番多く使われている語は、「気」という語かもしれません。
一説には千以上あると言われています。
「天気」や「空気」、「元気」や「病気」、「電気」や「磁気」等、そこら中に「気」が見つかります。
このいたるところに見つかる気ですが、その中でも最も多く使われているのは「人間の心の動き」についての気ではないかと思います。
「病気」は、気を病むと書きます。昔から「病は気から」とも言われてきてるように人間の心の動きによって病気になるのだと知らされてきました。
日本人が如何に「気」を気にしてきたかは多くの「気ことば」をみればよくわかります。
心の動きに関する「気ことば」を書き上げてみますと、気のついたものだけでも、こんなにたくさんです。
「気になる」
「気がせく」
「気が気でない」
「気もそぞろ」
「気が重い」
「気がもめる」
「気が滅入る」
「気を落とす」
「気むずかしい」
「気が抜ける」
「気おくれする」
「気兼ねする」
「気を使う」
「気を配る」
「気がくじける」
「気が散る」
「気が塞(ふさ)ぐ」
「気の置けない」
「気がふれる」
「気を病む」
「いい気分」
「やる気」
「気が合う」
「気にしない」
「気が晴れる」
「気がある」
「気を変える」
こう見てきますと、どうやら「気」の使いすぎの言葉が多く、「気ことば」は要注意ですね。気の使いすぎは、「元気」を減らします。これが積み重なるとやがては「気を病」んで「病気」になります。
「養生訓」を書いた貝原益軒という江戸中期の儒学者は、当時では珍しく84歳という長寿を生きた人でしたが、このように言っています。
「病気が治ったから、元気になったのではない。元気になったから病気が治ったのだ。」と。つまりは人間は「元気」(もともと備わっている気)を少しずつ減らしていって病気になる。だから元気を回復すれば病気は治る、と「気」の回復を第一に考えました。
ところで今日、私たち誰もが「健康」を第一に考えています。病気にかからないこと、不老長寿は皆んなの願いです。
健康に関する本の出版も日に日に増えてきました。「よい食事」「適切な運動」「充分な休息・睡眠」そして「笑う・楽しむ」ことと、どの本にも書いてあります。
健康の「健」は、身体「健(すこ)」やか、「康」は心「康(やす)」らかが組み合わさったものですから、身体ばかりを気ずかっても健康にはなれません。心身一体として「元気」であることが健康であるということですから、健康の決め手は、「心の持ち方」「生き方」が握っているともいえます。
心の持ち方、生き方というのは「気」の持ち方であり、「元気」を減らさず、より大きな元気に成長させてゆく生き方なのだと思います。
既述の「笑う・楽しむ」もその一つです。
元気を減らさない一つの方法として、「気になる」ことは、可能な限り、その日のうちにかたずける。もし明日やもっと先にならなければ処理できないことならば手だけを打っておく。例えば「気遣(きづか)い帳」を作っておいて、その日が来るまで忘れる、決してモヤモヤと頭の中で気遣いを続けない。などの工夫もよいかも知れません。
「気」を増やし、元気をもっと大きな元気にする一つの方法は、何ごとにも感動する「好奇心をもつ自分を養うことと、教える専門家が多いようです。私も同意見です。
具体的には、「自然に親しむ」「読書」「旅行」などを通して新しいことを吸収し、それに驚くことです。私を含めて、自分が知っていることなどたかが知れています。未知未見のものにできるだけ多く出くわして得る「感動」こそ、人を不老にし、病気にならず、いつまでも「元気」にしてくれる力だと信じています。
「気」を好奇心に誘(いざなう)うこと、今日から実行してみませんか。

○健康な人とはこんな人
たまに病院に見舞に行きますと、患者さんの多さや病室がいっぱい埋っているのをみて驚きます。そしてつくづくと健康ってありがたいなぁと感じます。
一方結構ご高齢だろうに顔色は艶々、溌剌として仕事していらっしゃるお方や、活々として何ごとかに打ち込んでいらっしゃるお姿を見る時、あぁ健康って何とすばらしい、と思わず見とれてしまいます。
言うまでもなく健康とは身心一如、身心も心も元気であることです。それではその元気いっぱいの人とは一体どんな人だろうかと、私なりに考えて次のように箇条書にしてみました。
(1) ものを何でもおいしく食べる人
(2) 健康の第一は、「食事」にあると考えて大事にしている人
(3) 腹八分の食事を実行している人
(4) よく噛んで食べる人
(5) 少々の晩酌をたしなむ人
(6) よく眠れる人
(7) 背筋が真直ぐに伸びている人
(8) よく歩く人
(9) いつも手足を動かしている人
(10) 呼吸を整えている人
(11) 何かをやりたいという意欲のある人
(12) 目的をもっている人
(13) 何ごとにも前向きな人
(14) 旅行をしたがる人
(15) 外出したがる人
(16) おしゃれをしたがる人
(17) 人と会いたがる人
(18) 何ごとにも好奇心旺盛の人
(19) 美しいものを見たがる人
(20) 何かを創りたがる人
(21) 何ごとも工夫している人
(22) 何ごとにも「感謝の心」で接している人
(23) ジョークを言える人
(24) 音楽が好きな人
(25) 読書をしている人
(26) 心配ごとは一日で決算してしまう人
(27) 極端な考え方をしない人
(28) 他人のために役立つことをしている人
(29) 笑顔を絶やさない人
(30) 「今日、ただ今」を最も大切に考えて、今という一瞬に全力を集中している人

このように書き上げてみますと、「健康」とは一言で言って「生き方」なんだなぁ、と痛感いたします。
私たちが健康を害する時は決って本来備わっている「免疫力」が低下している時です。免疫力を下げる要素は、
(イ) よい食事ができていない
(ロ) 運動不足
(ハ) 過労
そして
(ニ) 「よい生き方」ができていない
等です。
(ホ) 過激なダイエット
(ヘ) 運動のやりすぎ
(ト) 薬の飲みすぎ
(チ) 極端な清潔指向
等も免疫力を弱めますから要注意です
免疫力を高める「食事」について、ベターホーム協会は次の五つの食品をバランスよく摂るようにすすめています。
(1) たんぱく質を含む食品(肉・魚・卵・豆腐等)
(2) 免疫活性力がある成分を含む食品(多くの野菜・きのこ・海藻・乳酸菌)
(3) 抗酸化成分を含む食品(多くの野菜・大豆・くだもの)
(4) ミネラルを含む食品(肉・魚介・卵・牛乳・大豆・穀類・野菜・くだもの・海藻)
(5) 腸内細菌のバランスをよくする食品(ヨーグルト・ケフィア・芋・野菜・きのこ・
くだもの・穀類・海藻)
「よい生き方」と「よい食事」は「健康」の絶対条件です。ひとつひとつチェックしてみてください。
皆様のご健康と長寿を心から祈念いたしております。

○「笑い」の力
「笑い」は人々を健康長寿にし、幸福に導く大きな力を持っています。
笑顔の人を見るととても気持ちのよいものです。
「笑顔に優るお化粧なし」
女性の笑顔は格別に美しいものです。
ヨーロッパへ行くと街や公園ですれ違う人が笑顔で軽く会釈してくれます。何とも気持ちのよいものです。ホテルやレストランでもよくはやっているところは、笑顔が快く満ちています。
むつかしい仕事をしているオフィスで働く人も可能な限り笑顔で仕事をしたいものです。お客様はしかめ面より、笑顔の人と商談をしたがるものです。
「笑い」は自分自身を美しく愉快にするばかりか、自分のやりたいことをスムーズに成し遂げてくれる力を持ちます。それは、対する相手の気持ちをやわらげたり快くする力を持つからでしょう。

今、さまざまなところで「笑い」が科学されているようです。
遺伝子工学の第一人者と言われている村上和雄さんはいち早くこの問題に着目して、お笑いの吉本興業の協力を得て「笑い」の力を研究してきました。そして「笑い」によって糖尿病患者の血糖値が大幅に下がることを3年前に証明しています。その後は「ガン」についても研究を進めており、「笑い」がNK細胞という免疫力を高めることがわかり、これがガンの発生や繁殖を抑制できるという結論に達しつつあるそうです。
同じ研究を進めている科学者や医者は他にもたくさんいます。その中で「日本お笑い学会・副会長」という愉快な名を持つ昇幹夫さん(本職は麻酔科・産婦人科の先生)は各方面でひっぱりダコのようです。
昇さんは「笑いでガン細胞をやっつけよう」と各地で講演しています。NHKラジオ深夜便でも「笑い上手は生き方上手」と題して講演「前向きで楽しい極楽トンボの生き方が長生きの秘訣・ボクは健康法師」と言って人々を笑わせています。
その昇さんによると、ガンになる最大の原因は「心の問題」だそうです。ガンにならないために「感動したり、大笑いしたり、感謝の気持ちをもって、リラックスした心で過ごす」ことが大切で、「笑い」は極めて大きな力だ、と推奨します。

私たちは「笑顔」の人に出会うと美しいと思います。とても快い気持ちになります。
ところで私たち自身はどうでしょうか。出会った人に美しい・気持ちのいい人だと思われているでしょうか。相手を愉快な気持ちにしているでしょうか。
「笑い」は自分を健康にし、長寿にし、幸福にする力を持ちますが、それと共に自分の周囲の大切な人々をも幸せな気持ちにするというかけがえのない大きな力を持っていることをいつも心に留めておきたいものですね。

○「プロ中のプロ」ならば
「プロ中のプロの私が、法を犯してしまったことは、本当に申し訳ない」
去る6月5日逮捕直前に行われた村上ファンドの村上世彰氏の記者会見は、同氏による「プロ中のプロの私」という自負に満ち満ちた言葉が何度もくりかえされました。TVやラジオの視聴者はこれを聞いてどのように感じられたことでしょう。私自身は、もし「あなたはプロですか?」と尋ねられたら、「はい、プロです」と堂々と胸を張って答えるでしょう。しかし自分から「私はプロです」とは言ったこともないし、ましてや「私はプロ中のプロです」とは尋ねられても言わないでしょう。
私はプロという意識と自負は、仕事をしていれば誰でも持っているし、持つべきだと思います。プロの自負のない経営者なんて、ただの一人としていないに違いありません。
だから私は村上氏がプロであったことを認めるのに何の否かな気持ちはありません。しかしプロ中のプロであるかどうかについては、聊か疑問を感じないわけにはいきません。理由は、プロ中のプロは決して自らプロとは言わないものだと思うからです。

一方、村上氏とは対極にある人々も数多くいます。プロでなければならない筈の人が、アマ同然の仕事しかしていない例です。
「どんな職業であれ、仕事をすることによって報酬を得ている人は、そのことによって、すでにプロである。またプロでなければならない筈である。」
これは最近読んだ本に書かれてあった一節です。
全く同感です。
この本は、「プロの条件」として次の4つを挙げていました。要約すると次の通りです。
一つ目は、「自分で高い目標を立てられる人。」この程度の目標でいいだろうと、目標をできるだけ低く設定しようとする人はアマである。
二つ目は「約束を守る人、成果を出す人」
三つ目は「準備をする人」、絶対に成功するという強い意志のもとに準備に準備を重ね、自分を鍛える人。
四つ目は「進んで代償を支払おうという気持ちを持っている人」、プロであるためには高い能力が必要不可欠です。その高い能力を身につけるためには時間とお金と努力を惜しまない、犠牲をいとわない、代償を悔いない。このことこそは、プロとアマを分ける決定的要因である。
最後に著者は一流といわれるプロには共通しているものがある。それは
「神は努力するものに対して必ず報いる、と心から信じている」
「不平や不満はそれにふさわしい現実しか呼びこまないことを知っている」
「感謝と報恩の心で生きようとしている」
としめくくっています。
ところで話は少し報道に外れますが、新聞の見出しに「ヒルズ資本主義」という新語を
発見いたしました。
これはおそらく、20年前にイギリスの女性ジャーナリストが警告した「カジノ資本主義」をもじった六本木版といったところでしょう。その警告とは、こうでした。
「金融システムは、急速に巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある。いわば経済の実態を反映した金融市場ではなく、ギャンブル化した市場となり・・・(中略)・・・熟練や努力・創意・決断・勤勉が評価されなくなり、社会体制への信頼が急速に消えて行く。」

ライブドア事件に次ぐ6月の村上ファンド事件を顧みて、どうやらカジノ資本主義という“堕落”が日本でも現実になり出したのかと、この予言の怖さを感じないわけにはいきません。そして同時に、真のプロ中のプロならば、「自称」もしないし、又社会体制を崩壊に導くような倫理感の欠如した仕事もしないのではなかろうか、と思えてなりません。

○「食べる」ということ
「食」という字は「人」と「良」が合わさってできており、つまり食は「人を良くする」「人を良く生かしてくれる」を意味するのだそうです。
そして食は、私たちの生命を維持してゆく上で絶対に欠かすことのできないものです。
“すべての生き物にとって、たったひとつ必要なものがある。それは食べ物だ”(米・ソロー)
こんな格好をつけた思想家の言葉を持ち出すまでもないことです。
食が人を良くしたり、悪くしたりすることは、栄養学や医学者たちが、多くのことをすでに証明済です。
例えば、カルシウム不足は、人を怒りっぽくしたりキレやすくしたりします。
ゆえに、何をどう食べるか、又誰と食べるかということは人生の一大事であると考えなければなりません。
ところが、社会の大きくて激しい変化と共に、この人生の一大事が、忘れられようとしています。
この傾向は、とても心配です。
「君の食べているものを言ってみたまえ。君がどんな人間かを、言い当ててみせよう」
思わず怒り出してしまいそうなブリア・サバランという人の言葉ですが、今の世の中にこそ必要な豪語のような気がいたします。
食べ物は食べただけでは身につきません
食べ物だけが持つ栄養分が、体に消化吸収され、代謝されてはじめて体に寄与するものです。
そのためには、楽しい食事、「おいしい」と感じて食べることは極めて大切なことのようです。
栄養学の専門家はこのように言っています。「おいしく食べると、食後の熱産出が活発になることがわかっています。食後、体は体温を上げて余分なエネルギーを消費しようとします。嫌いなもの、おいしくないものを、いやいや食べるよりも、好きなもの、おいしいものをおいしく食べた方が、食後の体温の上昇率が高くなります。
それは、おいしい、楽しいという情報が大脳に伝えられ、自律神経系を介して、エネルギー代謝が活発になるからです」
私たちは楽しく、おいしく食事をするために次のような工夫をしなければなりませんね。
(1) 栄養バランスを考える工夫
(2) おいしく料理する工夫
(3) 楽しい食卓の演出と工夫
有名な池波正太郎さんはこう言っています。
「人間は死ぬために生きているのであり、生きるために食べる。つまり死ぬために食べるのだから、日頃の食事を大切に考えるのは人間として当然のことだ」
もう一人、作家の深田祐介さんは、このように。
「美味の条件は、いろいろあろうが、私はつきつめれば、唯一絶対の条件は、お相判してくれる相手だ、と思う。  
*      *      *      *      *
私ごとながら、「食」に携わるようになって38年という月日が流れました。(私は小学生の頃から家のマカナイを作ったり、学生時代を通して家業を手伝いましたから、それから数えると約50年間も食に携わったことになりますが。)
この間に私が得た最も大きな収穫は、経営のことやお金儲けの方法ではありません。少し生意気な言葉かも知れませんが、それは、「食」は人生のあり方を大きく左右する、という真理に行き当ったことでした。
そのためには、どんな世の中になろうが、私のつくる「食」は、安心で安全で、絶対においしくなければならない、と強く心の中に刻み込んだことでした。
小紙「味わいの物語」は10周年を迎えました。今号はちょうど100号紙ともなりました。
随想という形で、稚拙な文章を恥し気もなく書いてまいりました。にも拘らず多くの方々に読んでいただきましたことに対して、厚く御礼を申し上げます。
慣れないペンを持つ苦痛は並大抵ではありませんでした。思いの半分も伝えられないことに、いらだたしさとくやしさを感じました。そして食と直接かかわりのない事も書いたりして、お叱りをいただいたのではないかと思います。
けれども、これを書いている間に、「味わい」とは、ずばり「食」を味わうことと、「人生」を味わうこととは、切っても切れない関係にあることに気づかされました。大きな収穫でありました。
飽食の時代と言われてから、もうすでに多くの歳月がすぎました。社会の変化と共に、食事情も大きく変わりました。
今日では、すべての人々にとっての最大の関心事は、「健康」です。
食事情や生活環境の変化の中で、私たちはこれから「どうあるべきか」ということは、これからの三田屋のあり方、そして私の随想の最大のテーマとなります。恥をしのんで次号からも書き続けてゆきたいと思っております。 
最後になりましたが、廣岡揮八郎の三田屋に対する平素のご愛顧、ご叱正、ご支援に深謝申し上げ、これからも尚一層のご指導を賜りますよう心からお願い申し上げます。

○春夏秋冬味ばなし

○おいしさの条件
「人、飲食せざるものなし。能(よ)く味わいを知る者鮮(すくな)し。」とは中国の古典「中庸」の中の言葉です。私たちは食なくして生きてゆくことはできません。池波正太郎さんは「人間は死ぬために生きているのであり、生きるために食べる。つまり死ぬために食べるのだから。日頃の食事を大切に考える。」と云います。その大切な食事を私たちは、どこまで真剣に考えているのでしょうか。「医食同源」とは昔から云い伝えられている言葉ですが、よい食事とは、「健康」を保持するものでなければなりません。健康とは釈尊の解釈によれば「健」は肉体のすこやかさ、「康」は精神のすこやかさです。即ち肉体の栄養ばかりを考えてただ食べるだけであってはなりません。ゆえによい食事をする、という事は心身の健康を考えれば精神的にも豊かなものであるべきです。深田祐介さんはこう言っています。「美味の条件はいろいろあろうが、私はつきつめれば唯一絶対の条件は、お相伴してくれる相手だ、と思う。」

 深田さんの言葉に私は大いに同感です。せっかくの上等の料理も場の雰囲気次第で一挙に虚しいものに化けてしまうのを経験したのは私ばかりではないでしょう。ゆえに私は、おいしさ、まずさを決定する条件は、第一に食べる側のコンディション(空腹かどうかも含めて)、第二に料理に使われる素材のよさ、そして第三に料理人の腕や食卓の雰囲気、と云えるのではないかと思います。例を引いてばかりで恐縮ですが、阿刀田高さんはこのようにも云いました。「フランス料理を食べて“うまいな”と思わないではないが、食後のお値段を知って“これだけ出すなら親愛なる縄のれんのお料理の方がいいな”と思う。」私たちが「おいしかった。」と真底から評価するのにはこのように最終の値段に至るまでさまざまな条件がおり重なるのだと思います。  

○この季節に思うこと
5年前(1994年)の12月中旬のことです。ハムギフトの注文が殺到しました。私はレストランのメニューとレストランで贈り物に使われるお客様の商品を切らすわけにゆきませんので、夜を徹して取引のある百貨店に平身低頭、「売りどめ」をしていただくようにお願いに上りました。自分の造ったものが飛ぶように売れてくれることは生産者として実に快く嬉しいものです。しかし私の場合、私の目の届く範囲でしかモノを造らない方針ですから、売れるからといってどんどん増産するのでは私の信念の基盤を崩すことになりますのでそのような措置をとり、その後も百貨店には「数量限定」というわがままを通させていただいています。

 贈り物の季節になりますと思うことが沢山あります。京料理を食べに連れてゆかれた人が「ワシは器を食べに来たのではない。」と怒って帰ってしまった話と同様のことがギフト商品の中にもあります。価格の二分の一も「実」の入っていない超過大包装の仰々しいギフトセット、「元祖」や「総本家」「皇室ご用達」をちらちら、べたべたと唄いまくる老舗の品、一体消費者を馬鹿にするなとどなりたくなる品にお目にかかるものです。造り手の真心というものはこのギフト商品にこそ現われ出ます。何故なら贈られる側はお代を支払う人ではないからです。私の贈り物は私自身が知っているものの中でとくにあの人にもこの人にもこの味を知ってもらいたいものを予め包装形態や中身を確かめるために、送る前にひとつ自分に送ってもらってからにしております。ある雑誌にドキリとする記事がありました。「最も信頼のおける優れた贈り物という商品はそれを造る企業の従業員、とくにパートで働く人々が自社のものを贈りたがるもの。」というものでした。老舗の虎屋に「伝統とは革新の連続である。」という言葉があります。この言葉を、時流に添った物づくりの革新の連続と読む人もいるでしょうが、私は「真心」日々新た、と読みたいと思います。 

○「素材」が変る「味」が変る
年末の百貨店での「おせち」料理の予約が例年になく好調であったのは例の2千年問題でご主人が大晦日から会社に張りついたり、待機したりで遠出ができなくなったことによるらしい。この「おせち」料理は今でこそ百貨店で買うことが多くなったが、昔は各家庭でめいめい味自慢を兼ねて創ったものです。昔は冷蔵庫がなかったので、なま物は入らなかったのですが、今日は出来合いを買うのでその点も余り変ってはいないように思います。私の場合、妻が作ってくれるので丹波の黒豆もつやつや黒々した出来たてだし、ゴマメや蓮根や昆布巻きも新鮮でとても美味しくいただいています。近ごろ「おせち」に限らず、出来合いのサラダや揚げものの販売を「中食市場」というらしいのですが、それが好評だと注目されてきました。ご家庭の主婦が仕事を持つことが多くなったためでしょう。一方マクドナルドなどのファーストフードはすでに若者に定着しています。文明の利器を駆使したチェーンレストランはセントラルキッチンで作った食品をチーンと云わせて客席に運ぶのが最も効率的となりました。片やスーパーマーケットは大量仕入、大量ストック、大量パック販売です。もう20年も前になりましょうか。ある商社がアフリカ沖で捕った海老を岸壁の冷蔵庫にスペースがなく陸揚げできずに船をアフリカに戻してしまった。海老をどう処分してしまったのか聞いていませんが、その頃から日本は食料の大量輸入国となりました。今日話題になっています大豆などの遺伝子組みかえ食品に限らず食材は産地や保存期間の変化で確実に変化してきました。従って味も変ってきました。おせちの中身も外形の美しさほど味はよくありません。人の味覚は五味(甘味・酸味・苦味・塩味・旨味)を舌で味わいますが、最近驚く話を聴きました。「味覚障害」という新しい病人が推定で12万人も生れたといいます。この患者さん達はその五味と澁味や辛味の感覚が全くなくなってしまっているとのことです。学者の話では原因は加工食品の多食や薬剤の影響によるとのことです。人は習慣の織物と云われますが、私たちをとり巻く食材や調理の環境の変化がこんな新しい病気を生み出したのだと知ると複雑な思いに駆られます。そしてむかしに戻らなければならないのではないか、と思います。かの毒舌で有名な魯山人に言わせれば日本料理は素材が9割、料理人の腕は1割だとか、このままだと日本料理の伝統の灯も消えるかも知れません。
2000.1.1 Vol.033

○熟成
「河豚(ふぐ)」の美味しいシーズンが間もなく終ろうとしていますが、この魚だけは他の魚とはちょっと違います。河豚という名は中国名ですが、中国では最上の美味な食べ物は豚で、それに匹敵する美味い河で獲れる魚ゆえに河豚と名付けられたようです。私の推測では河豚の身は身と云わず肉と呼んだのではないかと思っています。それほどに河豚の身は他の魚と違っています。河豚の刺身を「テッサ」と呼びますが、お皿の絵柄がすき通って見える程薄く切ってもほどよく食べられるまでには殺(し)めて24時間は必要です。それ程に硬い身(肉)なのです。いつだったか見事な年なしの天然鯛の3㎝近い分厚いサシミをご馳走になったことがありましたが、その鯛はそれほど分厚く切ってあるのに口の中でトロリと溶けるようでした。しかも適当な弾性もありました。艶も見事なものでは味は云う迄もなく絶品でしたが聞いてみると、この鯛は殺(し)めてのち6時間は置くのだと言います。そんな大鯛の分厚い身でも6時間でやわらかくなるのですが、河豚の場合だけは24時間かかります。魚も牛や豚など動物は死後硬直します。ゆえに殺(し)めて直ぐは硬いものです。しかも苦味いものです。牛肉は殺2週間寝かせてやると肉も柔らかくなります。そしてうま味が出てきます。これは死後硬直が解けてタンパク質がゆるみ自家分解をはじめます。このときうまみの元となるグルタミン酸やコハク酸ができてくるのです。豚肉はもう少し短く3日から5日間程度でその状態となります。私達はこれを「熟成」と呼びます。即ち河豚の熟成期間は鶏肉などの場合と同等丸一日はかかるのです。巷間よくいけす料理をみかけます。いけすから網ですくって備えつけのマナ板の上でねじり鉢巻のお兄さんがいさぎよく包丁をふるってさも美味しいものにありつけそうなのですが、活きた魚はそのようなことで苦味いものなのです。それでもいけす料理は大はやりです。何故でしょうか。おそらく新鮮=美味という錯覚があるのだと思います。同様なことは生ハムやドレッシングなどにも云えます。例えば生野菜や麦酢を原料に使った三田屋の生ドレッシングも作り立てはそれぞれの原料同士が馴染まぬばかりか、原料のそれぞれがまだ角をもってツンツンとしているのです。ところが時間を置いてやると角がとれて味もまるくなってきます。と同時にお互いが味を引き立てて実に美味しく変身してきます。これも熟成のなせる技なのです。このように「美味」を味わうには新鮮さと共に「熟成」が必要なことを覚えておきたいと思います。
2000.3.1 Vol.034

○すばらしい丹波の食材
私たちにとって熊の冬眠は不思議ですが、熊は冬眠に入る前の晩秋に栗やどんぐりを食べると云われます。熊は冬眠中の防寒や腹もちや栄養補給のために多くの脂肪を蓄積する必要があります。栗やどんぐりは優れた脂肪層をつくるとのことです。そう云えば煮つめても煮つめても赤身が固くならない特別な味覚の脂肪層を持つ「猪肉」も猪が栗やどんぐりを好むのかも知れないと想像します。いつだったか栗林の猪は美味しいんだと聞かされたことがあります。丹波篠山に日本一の名声のある「猪肉」と「栗」が同居しているのは偶然ではないように思えるのです。周知のように「丹波」とは丹(あか)い波と書きます。何が赤いのかと云えば、それは実った稲の穂なのです。豊かに実った稲穂が風に揺れて波のように見えたのです。古代の米は赤米だったわけで丹波と名づけられたようです。このようにこの地はおいしい「米どころ」なのです。丹波地方の味覚は猪肉、栗、米にとどまりません。日本の食文化になくてはならないお正月の「黒豆」は遠い昔から「丹波の黒大豆」として名高い日本一の食材です。今ではこの黒大豆の「枝豆」が抜群の美味栄養食品として大人気となり初秋の丹波路に車を走らす人が絶えません。大豆は白豆、青豆、黒豆と三色ありますが丹波産はどれも丸々、艶々としてグレードの高い品質を持ちます。美しく粒の揃った大納言小豆も逸品です。赤松林の多い山中には日本を代表する高級品の「松茸」が育ちます。そしてきわめつけは「山の芋」。江戸時代には城主に献上された程の高品質をもち、大きなものは500グラムもある丸い形をしています。長芋に比べて、粘りも強く粒子がキメ細やかで味は最高です。 こうして丹波の食材をみてみますと、どれもこれもプロの料理人が競って欲しがるものばかりなのです。この地方にこのような良質の食材が数多く集中してできるには土質や気候など恵まれた自然環境があることは疑う余地がありません。 しかし私はそれ以上に丹波の人々が味覚に秀(すぐ)れていて、土や水や山を自然条件に添って暖かい情を作物に注いできた賜物ではなかろうかと思っています。三田(さんだ)の飼育農家が牛の背をやさしくマッサージしたり煮物を与えたりして飼育してきたと同様に。
2000.5.9 Vol.036

○「ええ塩梅」と「肝腎かなめ」
私たちの身体の血液やリンパ液、胃液などの体液は約0.9%の塩分を含みます。重病人に注射するリンゲルは0.9%の食塩水なのです。(因みにスポーツドリンクは0.5%の食塩水)この塩分0.9%という数字は人体にとって頗る快い割合のようです。その証拠においしいお吸い物は塩分0.9%に調理されたものなのですから。 「ええあんばい」に仕上った料理は塩味にまるみがあります。塩が多すぎたり少なすぎたりすると料理はおいしくありません。ということは料理は塩加減が鍵を握っているとも言えます。私がハムを作る準備工程で一番苦心するのが「塩漬」作業です。「塩は豚肉を10倍旨くする」と太古のむかしから伝えられている通りその塩漬の上手下手がハムの旨い苦味いを決定的にします。 さて「ええ塩梅(あんばい)」の梅とは何でしょう。醸造酢のなかった時代、梅酢が酢の代わりに使われていましたので「梅」の字がついていますが、それは「酢」のことです。料理人が塩味をまるくしたり、料理の味自体に深みを出すために酢をわずかに加えます。このことを「かくし味」とも言っています。すなわち酢は塩加減を「ええ塩梅」に仕立て上げる役割を持つのです。料理人にとって塩と酢は切っても切れない関係と言えます。 さて、この「ええ塩梅」は人体の五臓の最も重要な働きをうけもつ肝臓と腎臓とに深い係わりをもちます。重要なこと、中心的なことを「肝腎要(かんじんかなめ)」と言います。塩と酢は味わいにも人体にも文字どおり肝腎要なのです。最近では塩分のとり過ぎに対して過剰な反応がありますが、塩は空気や水同様に人間が生存するためには不可欠なものです。塩は腎臓と深い係わりを持ちます。人体から塩が欠乏すると腎臓の働きが弱まって体がダルクなります。一方酢は食欲を増進する作用を持つと同時に肝臓を丈夫にする役割があります。塩と酢は味わいの極意であると共に生命維持に欠かせない「かなめ」なのです。
2000.6.15 Vol.037

○「食通」とは
「食通」。現代では「グルメ」と言うべきなのでしょうか。しかし私には食通の方がよく分かります。食通とは、「よく食に通じている人」のことを差す筈ですから。世は料理の鉄人が現われたりして、TVの料理番組は長寿を続けており、現代流に言えば一億総グルメと言えそうですが、このグルメいや「食通」をここでおさらいしてみることにいたしましょう。 ―食通の条件― 「食通」とは、美味、澁味、珍味などの本味一切に通ずる『しろうと』をいうので、これは生れながらのものではなく、相当いろんなものを食い、研究もして、はじめて成り得るものである。したがって、材料の知識、料理法のアウトラインぐらいは当然知っており、相当小言の多い人種であるが、その評いかんは、ただちに料理人の腕の評価になり、料理店の名声に関係するので、専門家の最も苦手とすると共に、料理の発達には相当貢献しているのである。」 これは戦前に神戸の兵庫で祖先伝来の「西魚善」という料亭を継ぎ自ら包丁を取ったが、のち和歌山県で僧籍に入り、宝光寺の住職になったあと「茶」を極めた魚谷常吉という人の説明です。魚谷常吉さんはさらに食通を次の四つに分類しています。第一が金持ちの食通、茶人の食通、類するものとして年増芸者の食通。第二に中ぐらいの普通の食通。これが最も始末が悪く、何でも知っており、研究し、時には暇人があり、これに浮身をやつしているのだから、なかなかよく本味を知り、食物に対する造詣が深い人がある。第三は貧乏人の食通。安価なものに食味を求める連中で、時には自ら包丁をとる厄介な者さえある。ところがこの連中が立派な美味、澁味を発見する場合が多い。現今高等料理に使われるものは、ほとんど全部これらの人々の発見、工夫したものであると言ってよい。四番目は似非(えせ)食通。これは現代に最も多い食通で、新聞、雑誌、書物の上の研究と、人の口から伝わったものを食いもしないで盛んに吹聴する、料理道の破壊者である。 魚谷さんは明治27年生れ、昭和39年に亡くなったお人ですから年増芸者が等が出てきたりして一寸古いなぁという表現もありますが、さすがに自ら包丁を持ち客に接した専門家だけあって正鵠(せいこく)をえていると思います。TVや雑誌からの知識も大切ですが、第三の食通を尊重し、決して料理道の破壊者を食通と誤らないように心懸けたいものです。
2000.9.5 Vol.039

○レストラン「トゥール・ダルジャン」
8月の盆すぎ、私にとっては久しぶりの海外出張でした。ニューヨークを皮切りにミラノ、フィレンツェ、ヴェネチア、フランクフルト、パリの順でしたが暑い暑いフェレンツェに辟易して一泊だけニースに逃れましたので4カ国7都市を17日間という短い間に回ったことになります。 ヨーロッパはどこもバカンスの期間に当っていましたので、都市の多くの店は休みが多く、お目当てのフィレンツェではエノティカピンキオーリの本店もキャンティワインの雄アンティノーリの本店も、ミラノのペックもクローズでまことに残念でした。そのようなことで最終都市のパリでは思い切り豪華版を決め込みました。レストラン「トゥール・ダルジャン」。ノートルダム寺院を正面に見渡すことの出来るフランス料理店の老舗中の老舗、創業は1582年といいますから、今から418年前に開店したことになります。トゥール・ダルジャンでは、昭和天皇が皇太子時代の1921年に「鴨料理」を召し上がっておられます。そして天皇時代の1971年には50年ぶりに再訪されています。皇太子時代に召し上がられた鴨料理には当店特有の通し番号53211番がついていますが、それほどにここの鴨料理は有名です。因みに私の鴨料理には918782がついていました。開業年は国王アンリ3世の時代、ヨーロッパ芸術ではルネサンスの後期からバロックへ移行する頃に当りますが、民間のレストランとしてはじめてナイフとフォークを使用した店として伝えられています。ご存じの方も多いと思いますが、フランス料理および食卓のしきたりのルーツはイタリアのフィレンツェから移入されました。国王アンリ3世のひとつ前の時代即ちアンリ2世は1533年フィレンツェのメディチ家より、カトリーヌ・ド・メディチを嫁にむかえますが、カトリーヌが嫁入りに際しフランスの宮廷に持ち込んだのは、おかかえの多数のコックや多くの食品・食器類でした。それと共に食卓の礼儀作法や清潔さや礼節も持ち込んだのです。それまでのフランスの宮廷の食卓は道具と云えば鋭利なナイフだけでローストした大きな肉の塊や鶏を切って、素手で食べていたのです。カトリーヌの輿(こし)入れによって今日の優雅なフランス料理のスタイルが築かれたのです。 このようにして、イタリアから移入されたフランス宮廷の正餐は、その後凡そ50年を経てこの「トゥール・ダルジャン」に伝えられそして今日のフランス料理があるのです。フランスと云えばワインがつきものですが、ワインの世界一の生産国は今日でもイタリアなのです。しかし料理といい、ワインといい、食卓のしきたりといい、今日の洗練されたものに仕上げたのはフランス人です。ルーブル美術館の素晴らしい芸術作品が誇るようにフランス人の芸術心は「食」を芸術の域にまで高めた、と云ってよいと思います。だが、しかし私は再びトゥール・ダルジャンに行きたいとは思いません。お国柄の違いがあるのか、あるいはカトリーヌ時代の伝統が崩れてしまったのか、接客の粗末さ、横柄さにはこりごり、料理もすっかり素材の旨味を消してしまっています。
2000.10.11 Vol.040

○パルミジャーノ・レッジャーノ
今回は世界最高のチーズをご紹介しましょう。その名はイタリア名で「パルミジャーノ・レッジャーノ」。英名「パルメザンチーズ」です。(と言えば異論をお持ちの方もいらっしゃいましょうが、私自身の体験ではこれに優るチーズにはお目にかかったことはございません。)それはイタリア・エミリア・ロマーニャ州のパルマでつくられます。パルマ言えば世界でも一級品に上げられる「ハム」の名産地でもあり、この町を舞台にスタンダールが書いた「パルムの僧院」は余りにも有名ですが、この話しは別の機会に回しましょう。 イタリア人は日本やアメリカ等で市販している粉チーズや中堅イタリアンレストランが使っている粉チーズ、即ち「パルメザンチーズ」をこの「パルミジャーノ・レッジャーノ」と混同されるのを甚だ迷惑がります。それは製法や製造期間に余りにも大きな差があるためですが、味わいの違いはもっと大きく天と地ほどの差だといって過言ではありません。 このチーズを粉状にしてスパゲティやピッツァにふりかけたりオニオングラタンスープに添えたりするのを私たちは知っていますが元々は大きな固い固い(世界一固い)塊で、両手で抱えるほどの大きさと重量はと言えば35キロもあります。かつて私もこの塊を10個ほど直輸入しました。グレードも何段階かありますのでパルマで生産されたものでも価格はさまざまです。今日でも最上級品は1個でイタリアの学卒初任給、日本に上陸すると中堅サラリーマンの月給がまかなえます。日本国内価格は1キロ当り約1万円ですから1個35万円もするのです。 パルマでは2500年前のエトルリア人達の製法をそのまま受けついでこのチーズを作りますが1個に要する牛乳は570リットル、1個が仕上るには2年7ヶ月もかかるのです。業者はこんな長い熟成期間をじっと待つことはできませんので1年経つと銀行が持っている専用の貯蔵庫に移し入れて担保にして金を引き出す(借入れ)のですが、私達日本では考えられないことです。それだけにこの「本物」の味は凄いものがあります。私は赤ワインが好きですので、この塊をチップしてそのままアテにしますが、とにかく経験した人ならお分かりでしょうが、目の前にあるだけ食べてしまいます。レストランでこの「本物」が使われているかどうかは「カルパッチョ」を試せば最もよく分かりますが、スパゲティもピッツァもこの本物を使えば格段の仕上りとなってまるで違う料理を味わう経験をすることとなるでしょう。
2000.11.15 Vol.041

○連載「三田屋物語」

○第一号 はじめに

筆者はこの三田屋物語の連載を書きはじめてから暫し、表題を「廣岡揮八郎の物語」と改めるべきではないかとの疑問に囚われた。

なぜならば廣岡揮八郎と共に三田屋を起こした二つ年上の兄廣岡償治が10年前に癌で急逝してからの三田屋は揮八郎ひとりの手によってその三田屋という屋号が野太くかつ老舗の暖簾の風格さえ漂わせながら着々と地歩を築いてきたからにほかならない。この間に彼は「地ビール」という異業種のメーカーとして全国の外食産業のトップを切って参入した。180ヶ所にも達した地ビール企業の中で「造る」ことに最大のエネルギーを払い続けてきている企業は早くも三田屋ただ一社と云われるようになったが、瓶詰めをしないのもただ一社、資金の回転のことを考えれば皆がやる上面発酵ビールを造れば15日間で出荷できるのに、わざわざ45日以上も熟成させてつくる下面発酵ビール造りに固執する経営バカもただの一社だと言う。

これらは揮八郎の信念にほかならないだろう。モノは汗して造るもの。揮八郎は自らが造らずしてモノを売買する業種を嫌うが、近年混乱のさなかにあるマネーゲームについては見向くことすらしない。その廣岡揮八郎自身と三田屋の名で人々に知れわたるようになった屋号の知名度も世間の著名人や老舗に比べて甚だ若く、いまだ発展途上にあるのであろうが、しかしこの物語を読んでいただければ、ひとりの男が秘めて持つ能力が如何に大きいものであるかがお分かりいただけるかと思う。そして彼がさらに無限の可能性を有していることも、必ずしも大企業が小企業に優先しないこともお分かりいただけることと思う。筆者は「イタリアの中小企業戦略」という本を好んで愛読するが、三田屋は廣岡揮八郎の手によってこれまでの日本企業のあり方を逆転させるほどの実験を試みることとなるであろうと予測している。20年近く揮八郎に密着してきた筆者は彼からある注文を受けた。それはレストランの壁とハムの工場の壁にこの言葉を書いて額装してくれという注文だ。

 「人間の値打ちは何を、どれだけ望んだか、何を、どれだけ考えたかそしてそれをどれだけ成し遂げたかで決まる」

それは幼いころから母が揮八郎を含む五人の男ばかりの子供たちに言い続けてきたというフレーズであった。
1998.1.1 Vol.015

○第二号 おとんぼ揮八郎誕生
吉川英治は生前、扇谷正造にこう言っている。「人生はめぐり合いの連続だ。そのめぐり合った相手から何を吸収し、わが身につけたか、その収支決算表が 人生なのだ。」

株式会社 三田屋 取締役会長廣岡揮八郎は昭和21年3月1日、兵庫県氷上郡氷上町成松に男ばかりの五人兄弟の5番目(おとんぼ)として生を享けた。父は純、母はきぬと言った。揮八郎にとって人生の巡り合いのはじめは母きぬであり父の純であった。そして長男の優忠、次男の駿治、三男の庸禎、四男の償治が彼の目に映った筈である。

人間の性格は主に父母の血から享けて育つ。しかし必ずしもその血一色ということにもならない。生育しながら変化もする。性格の後天性は最も身近な人たちによって影響を受けて形式されるし又変化もする。身近の自然環境や生活環境から受ける影響も少なからずある。しかし血は拭えないことも又事実である。

揮八郎の生まれた氷上町には今「水分(みわか)れ公園」といって分水公園がある。わずかに標高九五・四五メートルのこの谷中の分水界は本州一の低い数奇な分水界である。ここに降って貯まった水はミネラル分を多く含んで日本海と瀬戸海に分かれて流れる。氷上回廊とも呼ばれてきた。揮八郎の生まれた成松から北へ向かうと香良(こうら)という土地がある。幽谷の仙境である。ここには「獨鈷(どっこ)の滝」という奇岩をくぐって落ちる二〇メートルを超える滝がある。氷上郡のとなり西脇市に生まれた横尾忠則は滝から生じるアルファ波から無数のインスピレーションを得ることができるという。彼の画く絵には「滝」が多い。

揮八郎はこの氷上の地に4才まで育った。三つ子の魂百までと諺に言うが、おそらく彼が意識しようとしまいと父母と4人の兄たちとこの土地のことは彼の心身から離れることはない。

「うちのオヤジは商売が好きやった。質屋・酒屋・飼料店や屑鉄商もやり、ガチャ万の時代には機屋もやった。四男の償治が生まれた昭和19年ころは、木炭自動車を乗り回していたというから相当な金持ちだったらしい。ところがオヤジは人一倍お人好しでネエ、誰でも信用してしもうて手形に裏印を押してやるわ、だまされるわで自分の家屋敷も家財道具もぜんぶ処分して、尚足らん分は他人から借金してそれを払いよったらしいですワ」と小学館刊、根岸康雄著「頭を下げなかった男たち」の中で揮八郎が口述したページがある。

その後一家七人は赤手となって三田市に夜逃げして移り住むことになるのであるが、揮八郎が「母は女傑であった」と尊敬の眼差しで語る母きぬの健気な活躍ぶりによる一家の再興と五兄弟が受けた教訓の物語はこの三田市からスタートするのである。
1998.3.3 Vol.016

○第三号 母の教え
三田に逃れた一家七人は、トタン屋根の下10畳一間の文字どうりの陋屋(ろうおく)を間借りして住んだ。極貧の生活が始まった。昭和25年、揮八郎4才、償治6才、上の年子(としご)の三人はそれぞれ9才・10才・11才であった。氷上での事業の夢が敗れた父親は、この切羽詰まった状況の中でも未だ気力を回復できないでいた。ところが逆に母親は強かった。揮八郎たちの母はまさに敢然としてこの貧困に立ち向かった。母は三人の小学生と二人の幼児を一手に抱えて必死に「仕事」を探した。母きぬの強さと賢明さ、そしてその行動力は全くもって男性を凌いだと言ってよい。揮八郎が「母は勇気があった。」と回顧するが当時の男まさりの母の姿が目に焼きついているに違いない。彼女の凄さは、誰もやりたがらない仕事を自ら選んでみつけてきたことだろう。力仕事も数あった。鉄屑や銅屑を拾ってきては売った。病院の残飯を集めて豚のエサにした。農家の畑の隅に捨てられて腐りかけた野菜をもらってきては洗ってきれいな部分は売って金に代えた。間借り家の裏に牛や豚の解体場があった。彼女はバケツを持って牛や豚の血や内臓をもらってきて乾燥させたり、きれいに掃除して焼肉用の材料を作って売った。当然それらは一家の夕餉にもなった。長男も次男も三男もみんな母を手伝った。おとんぼの揮八郎は小学校に上がったころから家族みんなのマカナイを見よう見真似で作ったという。これは後の彼の仕事に大いに役立つことになる。当時を振り返れば、それは日本の戦後復興の真只中のことである。そして身を粉にして働く彼女と家族にとって幸運が訪れた。朝鮮戦争勃発である。これは丸三年間続いた。この間にこの田舎町も潤った。どこからでも物をカキ集めてくる彼女の能力がモノを言った。少しずつだが小金が貯まっていった。しかし成長する子供たちを高校にやるゆとりはまだない。彼女は三人の子達を順々に奉公に出した。口減らしともなった。奉公先の三人はよく働いた。両親譲りの賢さと目に焼きついて離れない母の働く後ろ姿が彼らにはあった。

四男の償治とおとんぼの揮八郎は相変わらず母の仕事を家で手伝って学校へ通った。ある日長男の優忠が奉公先から子豚を二匹みやげにもらって帰ってくる。小学生の償治と揮八郎の二人はこの子豚を育てて早くも商いをはじめるのであるが、このことが将来日本中にファンを持つハム造りをはじめるキッカケになろうとはこの時誰が予測できたであろうか。

話は変わるが、ここに、とりわけ男子にとって胸にズシンと響きわたる言葉がある。

自然は、まじめで機敏で、知的で熱心な者、
その中でも特に「危険を冒す勇気」があり、
成功しようとする強い意志のある者、に味方する。

「人生の考察」を書いたフランスのノーベル賞学者、アレキシカス カレルの言葉だ。
揮八郎たちの母はそのうしろ姿を見せてこれらを教えたのである。
1998.4.1 Vol.017

○第四号 天賦の五感
廣岡揮八郎が父母から享けたかけがえのない宝物は二つある。ひとつは母きぬのその逞しい生活力の中から体で学びとった、危険を冒す「勇気」である。この人間にとって大切な要素としての「勇気」については、この連載の中でおりに触れてしばしば現れてくるからここでは詳説しない。ふたつ目は、父母からと云うより天から授かったといった方がよい。それは正確無比の彼の「五感」である。

五感とは味覚・触覚・嗅覚・視覚・聴覚の五つの感覚を指す。こう書いては主人公に失礼だろうが彼の味覚を除いた他の四感は人間離れ、動物的というより動物そのものなのである。普通の人々では殆ど感じない極少量のガス漏れも感知器より早く嗅ぎとる。暗がりで僅かに触れたモノも正確に云い当てるし、瞬時にしてモノの良し悪しを見極める超能力が備わっている。彼に言わせるとよいモノには必ず艶があると言う。筆者などにはその艶の見分けが難しい。さらには猫が聴き耳を立てたのかと思うほど、ほんの微かな物音も聴きもらさない。まさにこれは父母から享けたというより天から授かった宝物だ。そしてもうひとつの「味覚」については、さらに特筆が必要となる。少々専門的になるが味覚とは基本味である甘味、酸味、塩味、苦味、うま味を呈する特別の物質分子、たとえば糖類、酢酸、塩類、キニーネ、アミノ酸といった物質が口の中の味の感覚器である「味蕾(みらい)」に接触して起こるものである。即ち、彼の味蕾が人一倍発達しているのである。その証拠は数多くある。彼が造ったハムと生ドレッシングとオニオンスライスの組み合わせの妙は20年来変わらぬ人気オードブルとしていつまでもレストランで支持されている。ベーコンやソーセージ類の味つけも群を抜いて美味である。ビーフコロッケのあの触感と旨さ、ポン酢をベースにしたステーキのたれの酸味の軽妙なあしらい、トマトの酸味を程よく活かしたスープ等、枚挙に暇はない。即ち、今日の三田屋の味の基礎はこの揮八郎の天賦の味覚によって数奇な正統派として築かれたのである。

そればかりではない。彼はここ数年、直営レストランの建築と内装において目を見張るばかりの辣腕(らつわん)を発揮している。五感の総合力が「美」を見極め、それが実践と結びついて新しく目醒めたものであるに違いない。

さて、昭和28年4月、揮八郎は九鬼屋敷を少し南へ上がった三田小学校に入学した。その同じ年、校門の脇に建彰碑が建てられている。それは幕末の蘭医、三田出身の川本幸民の碑である。川本幸民はペリーが浦賀来航時に通訳をした人でも知られるが、彼の著書となる「化学新書」は維新前後を通して数少ない貴重文献である。「化学」という言葉は彼が作った。化学新書には幾多の物理実験の資料が掲載されている。「日本で初めてビールを醸造」した記録もある。平成七年近畿のトップを切って揮八郎は「地ビール」を醸造し、成功させたが、その建彰碑の人、川本幸民の偉業はたしかに当時から揮八郎の記憶の中にあったのである。
1998.5.7 Vol.018

○第五号 母子三人貧乏ぐらし
昭和28年、揮八郎が九鬼屋敷の坂を上った三田市立三田小学校へ入学したころ朝鮮戦争が終結に向かっていた。戦争が終われば又不況が来る。これは歴史の方程式でもあった。山高ければ、谷深し、の格言も又正しかった。不況はトタン屋根の下に住む貧乏所帯をなおも襲った。揮八郎にとって二つ年上の四番目の兄、償治が母校の近畿大学で行った講演録がここにあるので、その中から当時の様子を紹介しよう。

当時、私は六才、小学校一年生 (氷上から三田へ夜逃げした当時のこと―筆者註) です。自分の家の貧しさに気がついたのがちょうどそのころで、雨が降ったら、朝、ベットリとふとんがぬれている。それもそのはずで、トタン屋根の隙間から雨漏りしているんです。それに雨が降ったら、洪水で水が下から上がってくる。そんな家、家というよりバラック小屋でしたが、そこに私と弟とおふくろの三人で住んでいました。親父は事業の失敗で、「フロに行ってくる」と家を出たまま、未だに帰ってきません。(笑い)親父がいないんで、おふくろが山にたきぎを取りに行き、それを三人で売ったりしながら日々を暮らしていました。弟(揮八郎)と二人で隣の家のウシの世話をさせていただいて、ウシが食べる押しムギ―大きいムギを一升マスすり切り一杯もらって帰ってくる。そして前の大きな池でドジョウをつかまえ、それをダシにして雑炊をつくり、食事にしました。昼は学校に弁当を持っていけないんで、弟と二人、同級生がご飯を食べる間、運動場の砂場で遊んで待っていた。そして何くわぬ顔して・・・。と言っても私は弱気をもらしませんでした。というのは、ドッジボールをしている時、同級生が僕にボールを当てられ、「おまえ、昼メシも食わんのにえらい元気しとるなァ」って言うぐらいですから、何も隠そとしなかったんでしょう。逆に「ほっといてくれ、わしはメチャクチャ腹減っとるんや、お前ズウタイ大きいからようけ弁当持ってきているやろ。半分残してわしに食わしてくれ」ぐらいのことは言うていました。

兄弟は五人だったですが、兄貴たちは中学を出るとすぐ丁稚奉公に出ていました。時おり土産を持って帰ってくれる。それが非常に楽しみでしたが、その土産の中から小ブタが二匹あったのです。それが小学校の五年生の時でした。そこで、山の中に木を集めてブタ小屋をつくり、町にバケツで残飯をもらいに行くのが毎日の日課となりました。残飯をもらいに行くんですが、もったいないことをするんですね。まだまだ食べられるものをそのままバケツの中にほかしてしまったりしている。我々、恥ずかしいとか何とか言ってる状態やない。食べられるもんは全部食べ、その残りをブタにやるんです。そうして半年後、お肉屋さんが買ってくれた。それがまた次の小ブタを飼うハメになり、6匹になった。今度は自転車を一台買いまして、それで残飯を集めるようになったんです。次の半年後には30匹になり、とうとう150匹飼うようになった。それが中学一年生ですが、もういっぱしのブタ屋さんになっていました。(後略)

母と償治、揮八郎の三人暮らしは口べらしのために奉公に出た長兄たち三人が家に戻って、家業としての廣岡商店を立ち上がらす昭和34年まで続くのである。
1998.6.23 Vol.019

○第六号 三輪トラックの小学生
読者には、七人家族のうち家出した父、口減らしのために奉公に出た長男以下三人の子供たちのいない陋屋で、健気な母と四男償治、五男揮八郎の三人の極貧生活が数年間続いたことをご記憶願いたい。そして、この母のもとで償治と揮八郎が生計を守るためにすでに小学生のころから母を手伝い、家事や炊事を覚え、豚を飼育して「商い」さえ覚えたこと、とりわけ償治と揮八郎のふたりの兄弟が奉公に出た長男たち三人とはまるで違った生活を日々営んできたことをぜひご記憶願いたい。それは氷上を逃れて三田に移り住んだ昭和25年から数えて27年目の夏、即ち昭和52年7月28日、この末の二人の兄弟が家族の皆を振り切って、ステーキハウス三田屋をオープンさせ、そしてこの三田屋物語が綴られることになったその大きな根元がその母子三人赤貧のくらしの中にこそあったと考えられるからである。

揮八郎たちが飼う豚はついに三百頭にもなった。いっぱしのブタ屋さんどころか立派な飼育業者だ。豚のエサは相かわらず残飯をもらいに行った。近くに大きな病院があった。そこで残飯をもらうのであるが、「おまえらこれをタダでもって帰るのか。」と睥睨(へいがん)する大人たちの目が恨めしかったが、母の苦労の背を見なれている揮八郎には何でもなっかた。それでも流石に同級生とバッタリ道で会った時には恥ずかしさを隠し切れなかった。残飯集めは自転車ではのせ切れなくなった。知り合いに中古の三輪トラックを分けてもらってそれで残飯を集め、飼育した豚を肉屋に運んだ。

○第七号 廣岡商店
昭和33年。鍋底景気と言われ、朝鮮動乱後の不況の最終年に当たるこの年の7月に三田は「三田市」となっている。人口は3万3千弱、世帯数6868。(40年後の三田市の人口は10万5千人、世帯数3万5千)この年大冷害に見舞われた三田地区であったが、世間では戦後復興の明るいニュースが数多く報道された。長島選手が巨人軍入りしてプロ野球界が俄然燃えた。その巨人軍が秋の日本シリーズでは3連勝後の4連敗という大逆転劇を演じた三原監督の西鉄ライオンズに屈している。皇太子ご成婚(現天皇)が発表されミッチーブームが起こった。年末には東京タワーが完成、1万円札が発行された。米価は10キロ換算で900円であった。翌年の昭和34年は皇太子の結婚でテレビブームが起り、王選手の巨人軍入りでも世間が湧いた。鍋底景気も脱した。この年から「岩戸景気」がはじまる。インスタントラーメンやコーヒーが売り出された。中内功のダイエーがスーパーマーケットとしてそろそろと萌芽しはじめたころだ。企業の求人も急増した。

母子三人、貧困を堪え忍んできた廣岡家もそろそろとその苦労が実を結びはじめていた。中学を卒業して奉公に出た長兄優忠たちが次々に家に戻ってきた。とは言え家は吹けば飛ぶようなトタン屋根の陋屋である。家族七人が住むには狭すぎる位狭い。34年の9月に来襲した伊勢湾台風ではほんとうにトタン屋根が吹き飛ばされて家は水浸しになってしまった。長兄の優忠が20才の成人を迎える。揮八郎は中学二年となった。三田屋の母体「廣岡商店」はこの年に生れた。廣岡商店とは名ばかりのものだが、親譲りの賢しこさと負けん気と天賦とも思える勤労意欲に溢れていた男兄弟五人達の揃った一家の起業は明るい将来を約束されるに十分であった。中学校に通う揮八郎は忙しかった。勉強も遊びもする暇がないほど家業を手伝っている。賄いづくりや残飯集め、豚の世話は揮八郎の役割であった。そればかりか、揮八郎はすでにこの頃にいっぱしの商人を演じている。揮八郎が当時を思い出しては懐しく且つ得意気に語る特筆もののひとつの実話がある。

揮八郎は夕方になると家で調理が終わった豚のロース肉の塊を自転車に積んで農家を回ったのである。バラバラと点在する農家回りはかなり広範囲となる。帰ってくる時分にはとっくに日が暮れて足許も危うい。「おっちゃん、この肉買うてくれへんか。」揮八郎は自転車を田畑の畦道に止めて農夫に叫ぶように言って塊のロース肉をぶら下げて見せるのである。「農家の人よう買うてくれたもんや。わしが子供やから可哀相や思うて買うてくれたかも知れんな。」と述懐している。そのうち揮八郎は「農家の人、塊のまんまやったら使いにくいやろうから、今度行く時はスライスして持って行ってやろう、何か、こう簡単な皿みたいなもんを下に敷いて、キレイに並べてやるんや、そしたらもっと買うてくれるかも知れん。」こう思ってすぐに実行した。

この話、現在の世相からすれば嘘のような話なのだが、実話も実話、しかもこの揮八郎の発案は後に食品の小売店やスーパーで当たり前となった「パック肉」の大元となったのである。  (つづく)
1998.9.22 Vol.021

○第八号 10人前こなした揮八郎のバイト
筆者は中学生の揮八郎が「パック肉」を開発して農家に売りまっくたからといって必ずしも揮八郎に「商才」があったとは思わない。むしろ彼は商売が苦手で下手な性分であったのではないだろうか。それは後年、兄の償治と揮八郎二人がステーキレストランを開業させた時、兄は自然体でホールに立ち、揮八郎も全く自然体で厨房に入ったことでもわかる。揮八郎は見かけよりも遥かに、キレイ好きであった。彼がひとりでとり仕切る厨房はいつもピカピカに磨かれていた。ダクトにつながるフードのごてごてした油汚れは必ず毎日ふき取った。無駄なものはひとつたりとも厨房には置かなかった。壁面の黒いタイルはものの見事に磨かれていた、と彼を知る人は誰もが言う。そんな性分の揮八郎が今社長になって店長の顔を見るたびに第一に発するのが、「厨房はキレイか。」「トイレはキレイか。」「玄関のガラス戸に手垢が残っていないだろうな。」であるのは十分に納得がゆく。

昭和39年10月は東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した日本の記念すべき年であった。この年、揮八郎は名古屋商科大学に入学している。兄の償治はその前年に近畿大学農学部に入学していた。中学、高校とほとんど家業を手伝った揮八郎は全く受験勉強もしなかったのだから入学通知が来た時、揮八郎は小躍りして喜んだ。中学も高校もいつもビリから三番目だったという。勉強をしない揮八郎の下にまだ二人がいた。その二人とは今でも揮八郎の親友であるが、実にこの二人も商売で成功しているのだから世の中はわからないものだ。

さて揮八郎の大学入学は兄の償治の時と同様に廣岡家にとって画期的な出来事であったと述べてもよい。何しろ長兄から3人の兄達は義務教育の中学を終えるや否やすぐに奉公に出されたのであるから。償治も揮八郎も大学入学については複雑な思いを隠せないでいた筈だ。しかしこの話をあまりしたがらないのは、もう七人家族は普通の家庭並に小さな貯金ができるほどに極貧を乗り越えて回復していたからかも知れない。あるいは奉公にでた三人の兄たちに「スマナイ」と感謝の言葉を投げかけるのが照れくさかったからかも知れない。

大学時代はアルバイトで明け暮れた。揮八郎のアルバイトは並の人とは桁外れに違った。時間給70円。日当にすれば560円がふつうだろうが、彼は1,680円貰った。24時間ぶっ通し働いたからである。三日働いて下宿に帰って寝るという生活が続いた。名古屋の凸版印刷の仕事だった。のちに彼は三田の家業「廣岡商店」が忙しくなって人手がいるのでアルバイトを辞めて新幹線で通うことにもなるのであるが、凸版印刷の課長が土下座してまで、「辞めないでくれ」と頼んだというから、バイト・バイトした現代のバイト君達とはワケが違ったようだ。凸版印刷では彼が辞めたあと五人の補充が必要となったと言うから、彼の猛烈ぶりが理解できよう。大学二年は主に某大手のハムメーカーに出稼ぎをしている。日当は12,000円稼いだ。その時代の12,000円というのは大卒者の半月分の給料に相当する。仕事は豚の解体だ。この時の仕事量は概ね10人前をこなしていた。そればかりか、彼は解体した豚を広島から関西の工場までの運搬も請負ったのであった。彼の両腕と胸と首は猪のように逞しくなった。
1998.10.20 Vol.022

○第九号 習慣
筆者は揮八郎のその猛烈なバイトぶりを書きながら久しぶりに揮八郎に会ってみたくなった。西宮北インターチェンジのゲイトの東側の高台にポツンと建つ本社事務所を訪ねた。3階建ての白とブルーが管々しい建物は1階がハムを造る工場で、2階では地ビールを造っていて彼は3階の事務所に事務員たちと机を並べている。机には滅多といないだろうなと想像して3階に上がったがやはり居なかった。事務員に尋ねると、「あそこに居ます」と窓際まで連れて行ってくれた。彼はブルドーザーにのっていた。暫く見下ろしていると彼が北側にある荒れ地をブルで整地しているのが分かった。今ではその土地の上にスカイブルーと白の二層の流通センターが建っているが、中国道を走っていると鮮やかに目に飛び込んでくる。彼のブルの傍まで下りていった。もう整地は大方終わりかけている。写真を撮るから、とカメラを向けるとこっちを向いて少し笑ってくれた。「結構時間がかかりました。」「何坪あるの?」「700坪位、この上に資材倉庫を建てようと思って。2階はギフトの包装センター、近ごろ手ぜまになってしまったもんだから。」荒れた小山同然のこの土地をたったひとりで整地したと言うが私は驚かなっかた。随分昔にも彼のブル姿を何度も見ているからであった。しかしあれからもう20年もたってしまっている。世の中はこの20年で随分と変った。わずか20坪ほどのステーキハウスからスタートした揮八郎の店も17店舗にもなった。業界を代表するクリーンルームを持つハム工場もある。醸造機を二つ持つ地ビール工場もつくった。「ハムがよく売れてるんだってね。」と聞くと、「喜んで下さいよ。百貨店のお歳暮ギフトの売上ナンバーワン。もう三年も続いています。こいつですよ。」と5千円の、ハムと生ドレッシングの入った箱入りのセットを見せてくれた。「三年も続くとは凄いロングセラーだね。」「このセットはお客さんから絶対変えたら駄目ですよ。と言われたんですよ。そうこうするうちにあるメーカーが同じ形のもんを造りよったんですわ、しかしお客さんの目はごまかせても口はごまかせませんわ、知らぬ間に消えてしもうた、ウチの商品を宣伝してくれたようなもんやった。」あれから2年が過ぎたが年を重ねるごとに断トツの記録を伸ばしているらしい。

世の中は変った。揮八郎の三田屋も変った。しかし私の目に映る揮八郎は20年前の揮八郎と少しも変っていない。

筆者がはじめて揮八郎に出会った日も彼はブルドーザーに乗っていた。家の裏山を削りとって土地を造るんだ、と言っていたのを思い出す。男ばかりの五人の兄弟が家業の廣岡商店を営み、もうその頃は長男の優忠が丸優食品という法人を設立していたのであるがまだまだ企業といえる程の規模でもなかった。そんな時代であった。

さて、「初心に戻れる人に窮地なし」と言う古い格言がある。その通りだと筆者も思うが、揮八郎には当てはまらない。筆者の見るところ揮八郎の初心は全く自然体に引き継がれている。故に戻る必要もないからである。人生に於て大切なのは「習慣」である。揮八郎のその《よい習慣》はどうして形成されたのか。筆者の想像は三人の兄達が奉公から戻ってきたあと、おとんぼ(末っ子)揮八郎が五兄弟の中でどんな位置づけであったのか、そこらに原因をみつけ得るように思えるのである。
1998.11.17 Vol.023

○第十号 「受け身」と「攻め」
人は突然の困難にぶち当たったり、運命をさえ変えさせかねない事件に遭遇した瞬間、二つの両極に分かれる。ひとつは考え込んでしまってそのまま落ち込んでしまうタイプであろう。もうひとつは、目前の困難に敢然と挑む、そして一瞬の回復や再逆転をねらうタイプ、ということになる。その一瞬の分かれ道は困難と同時にやってくるのであるが、右へ行くか、左へ行くかは、人が持つ普段の「習慣」に基づく。

揮八郎は男ばかりの五人兄弟の末っ子に生まれた。当時木炭車を乗りまわした程の実業家であった父純が、お人好しだったために、知り合いの振り出した手形の保証をしたことにより一家が夜逃げしなければならない破目になってしまったこと、それが揮八郎四才の時で、それ以来七人の家族が喰うや喰わずの極貧の生活を余儀なくされたこと等はすでに述べた。

この運命の分かれ道に立たされた一家を後者の道へと導いたのは母きぬである。母は無言であった。中学を終えた順に長兄から三人の兄たちと奉公に出す差配をしたのも母である。四男の償治と五男の揮八郎は常に母の傍らに置かれたが、その分揮八郎は兄弟たちの中でも最も母の影響を受けたであろう。無言の母は言葉で育てることはなっかった。しかし揮八郎は母が果敢に運命に立ち向かう姿を十分すぎる程に観た。兄たちが奉公先から帰ってきた昭和33年、家業が廣岡商店として細々と萌芽したことも前に述べた。揮八郎の学生時代の想像を絶するバイトぶりもすでに紹介したが、読者の中には自己の経歴と重ね合う部分を持つ人もいられよう。だが筆者は五人兄弟の末っ子が成長して行く過程でどんな位置づけであったであろうか、を解説することはできない。次からは揮八郎の話である。「命令」と言う言葉が正しいかどうかは別として、揮八郎は自分以外の家族の全員から命令を受けて育つ立場にあった。ことに家業が始まってからは、父と母と4人の兄たちとは朝から晩まで同居である。「あれをせぇ」「これをかたずけろ」は日常茶飯事のことである。逆の立場からは末っ子の揮八郎ほど便利なものはいなかった。命令はたえまなく降るようにやってくる。しかも何を言いつけられるか分からない、何を言いつけられても従うのが当然であった。ここで筆者は再びこの受ける側、即ち揮八郎の立場に立って考えてみる。揮八郎は全ての命令を受けて立ったのであるが、世間にはそうでない例も多い。早くから家族から離れて飛び出した例が頗(すこぶ)る多いことに気がつく。そのすべての命令を当然のことのように受けて立った揮八郎の性格は終始「受け身」であったのであろうか、とも考えてみた。ところが答えは明白に「ノー」である。彼はいつのまにか受けて立つ事柄に「先手」を打つ習慣を身に付けたのである。彼の予測は面白いように的をえた。長兄が次にこう命令してくる、がおおよそ分かる。命令してきた時には、既に準備が整っているのだから兄達が驚く。こうして彼の「受け身」は「攻め」に転じていったのである。

元旦は毎年のように肥育農家に預けてあった牛が一頭死んだ。徹夜で働いた大晦日だったが元旦の朝一番の揮八郎の仕事は死んだ牛を焼却場に運ぶことから始まった。牛が死んだ原因は一部の肥育者が自分たちの正月のために牛の餌を二日分も三日分も一度に置いたためだ。牛は一挙に全部を食べて了ったために死んだのである。揮八郎の正月は2日の日にやっと、母が一週間かけてつくってくれた「鯖寿し」のご馳走をいただくことと、真っ白になって見えるほどの食べのこしのにらみ鯛の骨を鍋に入れて煮物のダシづくりをすることに始まるのであった。
1999.1.1 Vol.024

○第十一号 「勤勉」であること、と「時間」
怠惰は罪悪である。と考えたのは中世のカトリック教会であった。怠惰は祖先から受け継いだ力の発達を妨げ、その結果、無知と混乱と悲惨をもたらすものであって、不節制とともに現代人の大敵である。とアレキシル・カレルは「人生の考察」の中で述べている。

私たちは「起業家」が怠惰を貧る筈はないではないか、使われ身のサラリーマンならいざ知らず、と考えてしまうが、現実はさまざまであろう。ある本を読んでいると、こういうのがあった。「こういう人は絶対に成功しないという条件」と題して、四項目箇条書きしてあった。

一、言われたことしかしない人
二、楽をして仕事をしようとする人=そういうことが可能だと思っている人
三、続かないという性格を直さない人
四、すぐ不貞腐れる人

何だか世間のサラリーマンに啓示戒告されている言葉と受け取れるが必ずしもそうではなかろう。世間の起業家の中にはこの条件にすっぽりと嵌って失敗した例も数多くある。

さて、廣岡の五兄弟を見てきた筆者にはこの成功しない条件のただひとつとして当て嵌る人はひとりとしていない。極貧の生活が彼らによい習慣を植えつけたとも思えない。世間には貧困ゆえにグレた人も数多い。兄弟たちはただ無言で「いま」という現実に向かって敢然と立ち向かって働いた母の背を見たのであろう。「勤勉」という言葉がある。私は揮八郎と長年接してきて、それは空気のようなものでその言葉そのものを考えた事すらないのであるが、あの十三の徳目をあげたフランクリンは「勤勉」についてこう説明を加えている。「時間を空費するな。常に有用な仕事に従事せよ。あらゆる不必要な行動はやめよ。」勤勉の説明がまるで時間の節約であるかのようであるが、筆者はここで、はたと考えさせられる。「勤勉」はフランクリンにとって単なる「怠惰」の反対語でも何でもないのである。彼にとって、大切なのは何が勤勉なのか、であった。例を引いてばかりで恐縮だが、八十七歳にして「字統」「字訓」「字通」の大分冊からなる漢字研究の集大成を完成させた京都の白川静は「私は時間と競争し手て仕事をしている。」と語っているが、これはフランクリンの訓語と同義であり且つ分かり易い語りである。

揮八郎の青年時代から、いやふり返ればそれは少年時代からなのであるが今日現在まで、その仕事ぶりは将に白川翁の言う「時間との競争」であったのではなかろうか。世に成功物語は数多存在するが、「時間」を大切にしなかった人の成功例など唯ひとつとしてない。私達はともすれば「整理整頓」不足や、「先見」不足のために「探し物」で人生の三分の一ほどに相当する膨大きな時間の浪費をしようとしていないか、それら格言と揮八郎の習性をみて反省させられるのである。さて三田屋物語は次回からは五兄弟の仲で母の傍に最も長くいた四男の償治と五男の揮八郎のふたりが志をひとつにして家業から独立を試みる行りとなる。お楽しみに。
1999.3.2 Vol.025

○第十二号 九州の湖畔のレストラン
揮八郎が名古屋商科大学を卒業したのは昭和43年の春であった。その二年前には一つ上の兄の償治が近畿大学を卒業している。実質上は揮八郎も償治も学生時代から家業の一員と変らぬ程大学の勉強そっちのけで働いていたのであるが、母きぬは二人の卒業をことのほか喜んだ。これで五人の男兄弟が揃って社会人となって家業に赴いてくれたのだ。長兄の優忠はその四年前に結婚もした。優忠が結婚して二年目の昭和41年には個人企業の廣岡商店は(株)丸優食品と名を変えて法人を設立するに至っている。

思えばその苦労は食うや食わずの生活から18年経っている。だが涙は出なかった。彼女の逞しさは第一線を子供たちに譲ったとは云え相変らず廣岡家の大黒柱として厳然としてあった。揮八郎の大学卒業の昭和43年と言えば愈々日本が経済の高度成長を遂げはじめる年に当る。

二年後の昭和45年は大阪万博が未曾有の成果を誇った年である。高度成長のピークはその三年後にやってきた。昭和48年秋の石油ショックとトイレットペーパーや砂糖、醤油などの日用品がどの店からも消えてしまった年のことをご記憶の読者は多いだろう。それが日本経済の戦後のピークであった。(筆者は平成元年のバブル景気はあくまでもバブルであってそれをピークとは位置づけていない。)長兄優忠の「優」をとってつけた丸優食品のこの間の成長ぶりは目を見張るものがあった。何しろ世間一般では考えられない働きをする五兄弟が勢揃いなのだ。それに加えて世は政府の政策(筆者は特に46年から2年余りの政策を痛恨の失敗と断定しているが、)によって、過剰流動性、即ち高度インフレの最中であった。田中角栄の列島改造論もこれに輪をかけたと云ってよい。丸優食品ばかりではない。商品を持ち供給力のあるものなら、メーカーであれ卸商であれ小売であれ、皆んなものすごい荒稼ぎをしたのである。石油ショックによって原油価格は一挙に四倍となった。翌年の49年は一転してあらゆる商品は急落した。

しかし春闘は全国平均33パーセントという考えられない上昇率で妥結したのである。丸優食品も危うく不渡手形を把まされそうになったりしたが目先の効く揮八郎の打った先手で難を逃れている。丸優食品の財務的基盤は完全にこの期間に造られたと云ってよい。当時の丸優食品はその勤勉かつ超のつく技術と作業能力を買われて大手ハムメーカーから高賃金の下請仕事をあり余るほど受けていた。九州の佐賀にはそのための工場まで新築している。万博の年にビルを買って直接小売商いをはじめた三田駅前ビル「コアラ」店もユニークな商いで評判となり連日賑わった。しかし昭和49年は日本経済にとって大きな転換点となったと同時に丸優食品にもその変化の波は押し寄せてきた。当時九州工場長をしていた四男の償治が大手メーカーと大ゲンカをして工場閉鎖して帰郷したのもこの年であった。償治はこの年何が何でも大手メーカーを見返してやると揮八郎に語っている。償治が九州工場長時代、揮八郎は二度佐賀を訪れた。

現在は九州自動車道の要となった鳥栖インターのすぐ近くの工場は鍋島焼、有田焼、唐津焼と言った陶磁器の古くからの窯場も近い。その途中、ふたりは白鳥の浮かぶ池に面した小高い丘の上のレストランを発見して立ち寄った。この店がのちのステーキハウス三田屋のモデルとなるのであるが、二人の仲のよい兄弟がその時、食肉加工業から転じて飲食業をやろうと話し合った形跡はまだない。
1999.4.1 Vol.026

○第十三号 ほんもの
ある時、宝石商からこんな話を聴いた。ダイヤモンドを見分ける職人の養成は四年かけるそうだが、その四年間という間は一粒たりとも贋物を見せないのだ、という。

四年経ったある日ほんもののダイヤの中に贋物を少々紛れ込ませて最終のテストをする習わしだがこうして養成された職人は一粒のこさず贋物を発見するらしい。

揮八郎の兄償治は昭和49年大手ハムメーカーと大喧嘩して佐賀の工場をたたみ、多くの職人達を連れ戻ったのであるが、喧嘩の遠因は急激な「円高」にあった。読者は昭和46年8月16日のニクソンショックをご記憶であろう。その年の12月10日スミソニアン合意によって円ドル相場は360円から一挙に308円と急騰したのであった。新潟の燕市などは輸出用の洋食器を専門に製造していたのだからひとたまりもなかった。企業の倒産が相次いだ。一方、逆な立場の人の新しい変化も起った。

当時、償治が佐賀工場で大手メーカーの下請をしたのは主に輸入肉の解体と加工であった。ところが円高のために大手メーカーはその仕事を東南アジアの国でやらせて製品で輸入する方が安く手に入れることができるようになった。償治の佐賀工場はある日加工すべき輸入肉がバタッと来なくなったのである。昭和48年秋の石油ショックはそれに輪をかけた。そして昭和49年以降日本の経済は先の見えないグレーゾーンに突入するのである。大手ハムメーカーもこれまでの長いつきあいだからと償治に恩情をかける程余裕もなかったろうが、しかし償治には大手のやり方が余りに冷たく一方的であることに激憤した。僅かに三日ほどで大きな工場を整理し、従業員を首切ったり連れ戻ったりしたのだから余程彼の腹の中は煮え滾(たぎ)っていたのであろう。

彼は帰郷して一番に揮八郎に会ってこう言っている。「俺はドイツに行く。まあ二、三ヶ月でいいだろう。ほんまもんのハム造りを習うてきたいんや。ほんまもんのハムを造って、俺をだましたメーカーを見返してやる。」実際に彼がドイツへハムの修業に出かけたのは昭和51年のことになったが、彼はドイツの修業から帰るや否や揮八郎を連れ出して九州に出かけた。

前にも書いたように九州自動車道の要(かなめ)のインターとなった「鳥栖」へ愛車を飛ばした。国道を焼き物の有田方面に向かって走らせ、あの日二人が食事をした、白鳥が湖に遊ぶ小高い丘の上のレストランにやってきたのである。店の名はティーボーンと言ってビーフステーキ中心の酒脱な店であった。「もう下請の時代やない。自分の店を構えなあかん。パック肉も今では誰でもするようになった。これからは付加価値の時代や。帰ってこの店みたいなステーキ店を二人でつくろうやないか。ふたり共、牛のことはよう分かっとるから安心や。三田牛は日本一の牛やで。あとは料理や。まあ何とかなるわい。わしがレストランの中でハムを造る。日本一のハムと日本一の牛肉のステーキが売りもんや。両方ともほんまのほんまもんや。」

こうして償治と揮八郎のふたりの相談は車の中ででき上がったのである。
1999.5.11 Vol.027

○第十四号 「攻」と「守」
今年の読売ジャイアンツがあれだけのバッターを揃えておきながら下位を低迷しているのは「攻」と「守」のバランスがとれていないことに尽きよう。企業経営も「攻」と「守」が軽妙にバランスされなければ成長はおぼつかない。中内功のダイエーの挫折は「攻」がかちすぎたため時代の変化に対応できなかった事によるだろう。自然界の摂理や原則も陰陽の組合せから成り立っている。廣岡五兄弟の場合、筆者の目からは末っ子が最も陽で段々と陽がうすれてゆくように見える。さてステーキレストラン三田屋を起した四男の償治と五男の揮八郎のふたりに限れば、それは最も濃い陽と陽即ち(+)と(+)の組合わせであった。このことは後に二つの三田屋が生れる原因をなすので重要である。

話は溯(さかのぼ)るが兄償治の場合、持ち前の勝気が最も表面に出た。彼は家業の丸優食品の中にあって部分的ではあるが、どこかでいつも「大将」を気どらないではすまなかった。一方末っ子の揮八郎は物語のはじめの方で触れたように、父母と上四人の兄達から下りてくる命令をすべて受けて立つ、野球で言えば捕手の役割を受け持った。あとから振り返れば、陽の性格の最も強い揮八郎が好むと好まざるに拘わらずこのポジションをひいた事は強運であったと云わざるを得ない。何故なら起業家はたったひとりで陰と陽即ち攻と守の両方を持ち合わせる事が成功の必須条件となるからである。揮八郎は償治が大将を気どる派手な性格の裏で丸優食品の裏方を受け持った。工場の中で食肉の解体や加工に身体を使いながら牛肉のしぐれ煮や松茸昆布等という細かいものも作るようになった。

その一方でデスクワークを一手に引き受けた。その主要なものはあらゆる伝票整理と「経理」であった。ここで少し時間をいただくが、企業が経営に失敗して倒産する例を数多く見てきた筆者は、この「経理」の重要性を語らずを得ない。攻と守という経営のあり方が理想であるならば項は営業や開発を指す。一方、守は将に経理である。倒産した企業のことごとくがこの経理をおざなりにしたために憂目に遭っている。外見には営業上手が商売上手に見える。野球で云えば派手なバッティングだろう。しかし破産した企業の典型は派手に点は取るが、それ以上に守備の乱れで点をとられて負けたチームに等しい。まさに経理とは「経営管理」を指すのである。野球で云えば監督にも値する。中国では企業の最高位の人、日本で云えば会長や社長、頭取に位する人の事を「総経理」と称しているが長い歴史と多くの経験から経理の重要性を知った事によるものであろう。

かくて揮八郎が経理に携わったこの時期の経験は貴重だ。決して忘れてはならない。揮八郎はこの時期持ち前のカンのよさと云おうか動物的と云おうか、「現金主義」が企業にとって如何に大切か、という事実を身をもって把握した。読者はリビング・カンパニーという名をご存知だろうか。リビング・カンパニーとは長寿企業のことを指す。世界一の長寿企業はスウェーデンのストラ社で700年以上の業歴がある。長寿企業の条件の最も重要事項にこの「現金主義」が上げられているのに注目して貰いたい。

現金主義とは手持の現金の範囲でモノを買ったり投資をする、という事である。バブルに踊って破産した者に聞かせてやりたい。余談が過ぎたが三田屋を起したふたりの廣岡兄弟の性格と生い立ちは今後この物語を展開する上で欠かすことが出来ないと判断したのでお許しとご理解をいただきたい。
1999.6.15 Vol.028

○第十五号 長兄 優忠のこと
昭和52年7月の終わり、ステーキレストラン三田屋が開業するのであるが、筆者はこの開業から二年後の54年11月の出来事を先に触れておかねばならない。その年の11月14日の午後、廣岡五兄弟の長兄、丸優食品の社長であった優忠が急死した。息子の高校の柔道場での出来事であった。そしてその葬儀の香のまだ濃い11月29日、母のきぬが60歳の若さで死亡している。母と子ふたりがわずか二週間という短い期間に他界する、という悲劇は廣岡家の家族にとって、たとえそれが運命であったとしてもいたたまれないものであった。女手ひとりで五人の男の子たちを育て、家業をきりもりした文字通り大黒柱であった母は、よもや自分よりも先に自分の生んだ優忠が目の前で逝ってしまうなんて思いもよらなかった。その悲観は他人が想像できるものではない。

きぬは氷上にあった時代五人の男児を生んだ。家業は質店、酒店、飼料店、機業場等いろいろ経験したが夫は木炭車を乗り回す程の商屋であった。お人好しの夫が他人の手形に裏判して保証したために一家が夜逃げしなければならなくなった日からきぬの苦労は始まっている。戦後のまもない昭和25年であった。血の滲むような食うや食わずの生活を支え、子供たちを養育してきた。母は三人の男児たちを中学が終えるや奉公に出した。四男と五男は大学にまで進ませた。そしてこの四男と五男が昭和52年の夏、レストランを持った。苦節30年やっと苦労が報われようとした時、長兄が死んだ。母は揮八郎たちに、「私たちは自分の力だけで生きてるんではない。生かされてるんだから、一生懸命生きるように努力しなければならない。」と言葉少なに語ったという。その母が、すでに生かされることがなくなってしまった優忠の骨を拾った時、何を思ったことであろう。そしてその日から二週間ののち自らも逝ってしまったのである。

筆者は長兄の優忠に会ったことがなく写真でしか知らない。揮八郎が折に触れて語る優忠は堂々とした体躯の持ち主であったらしい。奉公時代の力仕事と柔道で鍛えた固ぶとりの肉体は父と似ていたという。父の血を受け継いだのは西郷隆盛ばりの風貌ばかりでなく、人間性もそうであった。町内やPTAや多くの団体の役員に推される信望があり誰からも好かれた。豊かな包擁力が備わった廣岡家の長男に相応しい人物であった。四男の償治と五男の揮八郎が家業の丸優食品から独立してステーキのレストランを開業したいと持ち出した時、真剣に相談に乗ってくれたのは優忠に外ならない。揮八郎はあの時、優忠兄の理解と寛容がなければ今の三田屋はない、と言う。この時、丸優食品の役員に名を連ねているとは言え償治も揮八郎も一介の月給取りに過ぎない。この二人が計算した開業資金は少なく見積もっても6000万円はかかる。揮八郎はN銀行に日参したが、こんな田舎でそんな派手なステーキのレストランなんて、とまともに相手はしてくれない。反対に家業に励んだ方がいいですよ、と言いふくまれる始末である。揮八郎はN銀行に綿密な計画書を提出すると同時に、ねばり強く時代の変化とこれからの企業のあり方を滔々として喋った。N銀行はとうとう、君たちには貸せないが優忠さん個人の保証があれば、丸優食品に貸しますから、会社から二人が借りなさい。二人も当然保証人になってもらいます。返済は丸優食品の名義でということになりましょうが、支払う方法は二人が直接に実行すること、と条件を付けられたのであった。
1999.7.13 Vol.029

○第十六号 レストランオープン前夜
揮八郎が6000万円というレストラン建設資金の融資をとりつけたのはこの地方では名だたるN金庫であった。ディスクロージャーや自己資本比率を厳しく問われる今日の金融業界にあっても全国10指のランク上位にある堂々たるN金庫である。その分N金庫の融資条件は甚だ厳しい審査があった。揮八郎の熱心な説得や長男優忠の絶大な信用のあと押しがあったとしても海のものとも山のものとも分からぬ新規事業への融資はやすやすと決定される筈もなかった。しかも三田市というせまい田舎町での大それたレストラン開業など誰の目にも無謀に見えたものだ。しかし融資の稟議は決済された。当時、若手行員として窓口を担当した某氏は次のように22年前の内輪話をしてくれた。「N金庫にすれば当時としては全く異例の融資決定でした。誰もが無理だと思った事案でした。ところが決済が下りた。私など目を白黒させたもんです。はっきり云って事業に貸すんではない、人物に貸すんだ、あの兄弟たちはちょっとふつうとは違う、人並み外れた仕事をこなしよる。人望も信用も厚い優忠さんの保証をとりつけて貸すことにした。と聞いたときは、うちの金庫もいいとこあるナと思ったものでした。」

償治が本場ドイツに学んだハムの試作が着々と進む中で償治と揮八郎のレストラン構想も急ピッチに進行した。レストランのモデルはあの九州の湖畔のレストランであった。用地の向かい側は道を挟んで湖とは名ばかりの池ほどの「はざま湖」がある。湖の背は樹木が湖水にまでこぼれ落ちるほどにおおい茂っている。古い三田学園の校舎の一部分が樹木のあいだからのぞく、そんな風景がレストランの窓から見えることになるのである。湖に白鳥を泳がすことが先ず頭に浮かんだ。こんな田舎だから夜は淋しくて仕方ない。店には「音楽」がいつもなければならない。それも生演奏のピアノかエレクトーンが似合う。あれやこれやの構想は建物の設計図と睨みあう間にも生まれた。建物の部分は少し地上げして湖を見下ろす総ガラス張りに決まった。柱は太い松丸太を使う。屋根は日本瓦、もちろん平屋建、唐招提寺の趣もとり入れたい。

当初、猛烈に反対した母や三人の兄達もこの頃にはすっかり溶け込んでふたりの相談にのってくれるのだった。昭和52年4月。四男償治33才、五男揮八郎31才。二人は正式に丸優食品の取締役を辞任した。お互いに踏ん切りがついた。工事は急ピッチに進んだ。8月1日オープンを決めて、7月28日から4日間は土地の人々を順に招いた。招待された人は驚いた。一段高くなった玄関先には初めてみるロールスロイスの名車(中古だったが)が置かれた。瑞々しく緑の築山が庭の周囲を彩る。これからの時代は「車社会」と読んだ二人は高級車がゆったりと駐車できるスペースを念入りにとった。そのアプローチも仲々のものだ。玄関を入って人々は二度驚きの声を上げた。右側のガラス張りの中にハムのスモーク機があり、でき立てのハムが沈丁に吊るされているのを見た。そしてホールに入るや、これがレストランかと驚く。
まるく浮き上がったステージの上ではロングドレスを粋に着こなした女性達がエレクトーンと
フルートの二重演奏を演じていたのであった。
1999.9.1 Vol.030

○第十七号 料理と芸術
仏の天才画家ロートレックは「芸術と料理は同じ特質を追求するという点で一致する。」と言った。

さて、三田屋という名のレストランが三田という田舎町に開業して来客を一番に驚かせたのは、料理ばかりではなかった。料理の席につくまでに人々は驚いた。玄関先にディスプレイされた本物のロールスロイス、時には駅まで客を送迎した。運転したのは作務衣服を着てわらぞうりを履いた償治であった。和風造りのレストランの玄関に置かれたその英国伝統ある名車にすべての客の目は奪われた。重い一枚扉の玄関を入ると右手にハム職人がハムを造っているのがガラス越しに見えた。そのでき立てのハムをこれからいただくのだと人々は心をときめかす。ホールの中央に丸いステージがあった。そこでは艶(あで)やかな衣装をまとった奏者のアンサンブルがバロック音楽を演じているという日常空間からはまるで離れた世界があった。テーブルに着くとちょうどよい目線の向こうに白鳥の遊ぶはざま湖が見える。三田学園の校舎の高台の大きな樹木の濃い緑が湖面に落ちこぼれる風情は何とも落ち着く。これからステーキ料理をコースでいただくのだ。器はすべて青磁、伝統の火が消えた三田青磁を蘇らせた三田屋の窯がつくった。

後年償治は能舞台付きの大レストランを三田のニュータウンに建造してこの地を去るのであるが、彼はこの開業当初から「食事は2割、後の8割は客の五感を満たす文化事業」と言い張って止まなかった。五兄弟の中で最も派手好みであった彼の性格がここでポンと表面に出た。
一方五男の揮八郎も償治同様に店舗の雰囲気やアトラクションには大いに興味を示し同調であった。しかし揮八郎は償治の言う、食は2割、あとの8割は文化事業というのにはひっかかった。レストランはお客にとって特別の食卓、日常から開放された空間と時間帯でなければならない。そのために特別のものが用意されるのが望ましい。とくに湖に浮かぶ白鳥や生演奏のバロック音楽などはよい。しかし食事の占める割合が2割でよい、というにはどこかおかしい。償治は何か最も大切なことを勘違いしていないか。レストランは見世物小屋ではない。いっときの観光客相手にアトラクション中心に食事を提供するという姿勢ではレストランとしてお客に対し失礼なことだ。何よりもここは食事をしてもらうところだ。何よりも優先されなければならないのは食事がおいしい、という事だ。お客が二度、三度行きたくなるのは先ず食事がおいしいこと、音楽や器や店の雰囲気というものは序列をつければ三番目でよいのだ。一番は「味」二番目は人手による快い「サービス」なのだ。償治が8割を唱える文化事業を芸術というならば、それは芸術をはき違えている。この世界では「本当の芸術は料理の中にこそ存在すべきだ。」

揮八郎と償治はこの2割、8割で大いにぶつかった。お客は揮八郎の作る料理に満足した。特にコース料理のはじめに出される薄切りのハムと玉葱のスライスに揮八郎のつくったオレンジ色の生ドレッシングをかけたオードブルは全く新鮮な味であった。柔らかい肌をもちスモークが馥郁(ふくいく)と香るハムはこれまで馴染んだハムとは全く違った。揮八郎は幼年時代から味づくりにたけてはいたがこのハムのオードブルの開発はプロの料理人としての出発の秀れた第一作であったと云える。こんな揮八郎が償治の云う食事は2割でよい、という暴言を受け入れられる筈はない。開店当初から早くも二人はぶつかったのであった。
1999.10.5 Vol.031

○第十八号 訣別
ステーキレストラン三田屋が片田舎の三田市に誕生したのは昭和52年8月のことである。

この日を境に廣岡の五兄弟は事実上二分した。家業の丸優食品(現在の(株)丸優)には長男優忠(38才)次男駿治(37才)三男庸禎(35才)の上三人が残り、三田屋を計画した四男償治(33才)と五男揮八郎(31才)の二人は丸優食品から巣立って独立した。二人が独立を果した証拠は同年四月に丸優食品の取締役を辞任していることでも明らかである。さて30代バリバリの実業人が総揃いした廣岡家の難渋はここから始まった。この二年後、長兄優忠と母キヌが二週間を空けず急逝する。だがその前年に償治と共に腕を奮った揮八郎が突然三田屋を辞めるという事件が起っている。遠因は激しい陽同士のぶつかり合いではあったろうが揮八郎の弁によれば償治の料理に対する無理解が最大の原因となった。

揮八郎は三田屋で提供する料理のすべてのレシピをつくった。馥郁(ふくいく)たるほのかなスモークの香りの漂うハムとオニオンスライスと生ドレッシングの組合せによる三田屋名物となるオードブルも揮八郎の発案による。その生ドレッシングもステーキに添えるソースやトマトをベースにした野菜いっぱい入りのスープ、ステーキをレアーの状態で鉄皿にのせて客席に運び箸で食べる方法など全ては彼のアイデアから生れたのであるが、償治はこれら揮八郎の力作を無視した。償治はレストランの装飾やアトラクションや営業力で集客を図ればよい、食は客の五感を満たす文化事業だ、食事の割合は二割でいい、と言い張った。職人と商人の根性のぶつかり合いは到々訣別に至るのであった。そしてまもなく長兄と母が死んだ。いよいよ鳴動がはじまる。廣岡五兄弟の混乱は揮八郎がひとり再起して西宮最北部の山口町という田舎町にステーキハウス三田屋の独立店を持つ昭和56年、その年の暮れいっぱいまで続く。

そして、昭和56年の夏、長兄優忠なきあと実質上丸優食品を継いだ三男庸禎と三田屋の償治が猛烈に衝突した。もともと性格の異なるこの二人の兄弟仲は険悪であったが一家の支柱であった母と長兄を同時に失ったことで一挙に「両頭」が走り出したと言えよう。この騒ぎで五人の中で最も無口でおとなしい性格の二男駿治までもが丸優食品を飛び出すことになるのである。母キヌが苦労して築いた廣岡の人城はガラガラと音をたてて崩れて行くのであった。昭和56年丸優食品と三田屋の間で取引されていた牛肉とハムの商内もついにストップした。丸優食品の庸禎はこれを機会にスモークマシンを導入してハム製造にとり掛ることになる。一方丸優食品を飛び出した二男駿治も自宅でハムを造りはじめるのである。何と云うことだろう。僅かに三年の間に兄弟は大分裂してしまったのである。しかも庸禎の償治に対する執念はこの後も猛然と続くのである。
1999.11.24 Vol.032

○第十九号 「スタミナ」づくり
四男償治と衝突して三田屋を去った揮八郎は生家の家業丸優食品に戻った。その頃先々にマスコミの寵児にもなった償治の三田屋には連日高級車が押し寄せ日に日に盛況を呈した。「兄とは違う三田屋を俺もやる。」三田屋を去った瞬間揮八郎の腹は決っていた。揮八郎は丸優食品には誰よりも早く工場に入った。午前5時から3時間は8時から出社してくる社員たちの仕事の段取りをことごとく仕上げた。連日十二時間はたっぷりと働いたであろう。揮八郎の場合五人兄弟の末っ子という立場から長男や三男に対しては従順であった。しかし償治がそうであったように三男の庸禎とはどうもウマが合わない。同じ工場で仕事をしながら庸禎とはことごとく意見が平行線をたどった。揮八郎は「俺は何れこの家を出る」と決めていたから償治のようにモロに衝突はしなかったが。

さて、既述のように昭和54年の晩秋に二週間を空けずに母キヌと長男優忠が他界した。これを端緒に廣岡の五兄弟は分裂をはじめるのであるが、揮八郎の三田屋が独立して開業したのは昭和56年7月であった。その1ヶ月後に丸優食品三男庸禎と三田屋の四男償治が猛烈な大ケンカをする。この時点で償治の三田屋と揮八郎の三田屋そして家業の丸優食品の縁は完全に切れた。そしておとなしい性格の二男の駿治も丸優食品を去る。

標高931Mの六甲山は神戸を南北に分裂している。山の南側は七つの海洋に通じる日本を代表する港町であるが北側は閉ざされた寒村である。ただ唯一日本最古の温泉地と云われる有馬温泉が阪神間から客を呼んでいた。西宮の山口町といえばその神戸の最北部と接した同市のこれまた最北端に位置している。少し北へ向かえば三田市に至る。有馬温泉の街をぬって流れる有馬川は三田市に入ったばかりの地点で武庫川に合流するが、山口町はその丁度中間の有馬川と並行する新道国道176号線沿いにあった。揮八郎が借り受けた15坪の店舗は田んぼを造成してつくられた四軒長屋のうちの一軒であった。周囲は田畑ばかりで僅かに国道沿いに細々とした喫茶店や寿司屋が店を構えているものの朝夕はまるでカエルの学校である。片や償治の三田屋は開業から四年経て華々しく宣伝し客を呼んでいた。

その償治は「湖もない、白鳥もいない、ピアノもない、こんなみすぼらしい田ンボの中のせまい田舎店に誰が来てくれるか、馬鹿なことは止めろ。」と揮八郎に罵声を浴びせる。「それに、おまえは人々に使われたことはあっても人を使ったことがないやろ。店は料理作っただけではやっていけへんのや。」と兄貴風を吹かせた。揮八郎は正直、あとの言葉に動かされるものを感じたが、何クソ、となおのこと兄へのライバル心を燃やした。この時揮八郎の貯えは僅かに350万円であった。開業資金はどう見積もっても1300万円要る。銀行はどこも相手にしてくれなかった。しかし揮八郎の真骨頂はここで発揮された。金はどうにかなる。それよりも未だせんならんことが残っとる、と言って彼は有馬グランドホテルに勤め出したのであった。朝は5時に丸優食品に出社し午後の5時に終る。帰宅して着替えてホテルに6時に入った。ホテルの給仕の仕事は12時に終る。睡眠は僅かに4時間だ。休みなしにこれを1ヶ月間通した。

なぜそんなことをしたのか、金のためか、と質すと思わぬ答が返ってきた。いや違う。スタミナと根性をつけるためや。
2000.1.1 Vol.033

○第二十号 店はキレイか
友とはありがたいものだ。揮八郎の場合は小さい子供の頃から家の賄いや家業の手伝いばかりをしてきたので仲間と遊ぶ時間がなかったせいか友達は少ない。それでも二人や三人は親しいのがいた。もうすっかり大人になってしまった今だが、揮八郎の三田屋の本社に近い有馬街道沿いに「福鶴」という小ぎれいな寿しと割烹の店を持つ福本とは長いつき合いだ。昭和56年、揮八郎が本家からも、兄償治の三田屋からも訣別して自分ひとりのレストランを開業しようと工事に入ったその夏、何もかも事情を知る福本は「何でも言ってくれ。」と力強い応援をくれたものだ。その福本に対して揮八郎は「皿洗いをさせてくれ」と云っている。「何で又」と不思議に問い返す福本に揮八郎はこう言っている。「俺の新しい店は、多分お客さんでごった返すだろうから、皿洗いは大事や、店も狭いことやし、ぎょうさんの皿を置かれへん、俺が早よう皿を洗わんと次の人に料理が出せへんやろ。」真面目くさって言う揮八郎を、大きなこと言いよってと、いい加減に聞き流した福本だったが、次の日、エプロンを巻いて裏口から「来たでぇ、たのむワ」と揮八郎が大きな声で入ってきたのには驚いた。三田の小学校時代から並の根性もんやないのはわかっていたが、大風呂敷を広げよるのも知っていた。ただ福本が今でも揮八郎を好きなのは、その広げた大風呂敷も必ず現実のものにしてしまう、そのことをよくよく知っているからであった。揮八郎は福鶴で皿洗いをマスターした。皿洗いをしながら片時も離さずお客じっと観察した。有馬グランドホテルの給仕のバイト時代も「お客はどんなことを嫌がるか。」そればかりを観察した。

さて、揮八郎は無類のキレイ好きで育った。これは母ゆずりのものだろうが、名古屋の下宿時代から毎月自分で洗濯をしたし、乾かした下着はシャツとパンツ、シャツとパンツとセットしてタンスのひきだしに整理しておかないと気が済まない方だった。

こう書くと何と神経質な小男よ、ととられがちだが、実際は正反対なのだから面白い。性格は超のつくO型なのだ。そのO型は大きなまんまるい円と言ってよい。その特別大きな円にはどの方角にも門があって、誰だろうとその門から入ってくるし、揮八郎はそれを最も喜ぶのだ。そんな揮八郎が下着をキチンと整理しておかないと気が済まないなんて誰も想像つかない。だがその事だけは格別なのだ。筆者は彼のレストランやハムなどの工場をみて、それが分かった。従業員の話によれば店回りをする揮八郎は、売上げはどうや、とは一言も言わない、入るや否やトイレに直行して掃除を確め、次に厨房に入って溝の掃除を見る、とくに水回りに厳しい、という。揮八郎は職業柄ケタ違いに多くの飲食店を食べ歩くが、ハヤる店とそうでない店とは入った瞬間に分かるという。「店がキレイなのは店の経営者やスタッフの気持ちがキレイなのだ、だから味やサービスなどはテーブルに座る前から分かるんだ。」

僅か十五坪だが揮八郎の店の工事は突貫で進行していた。しかし、工事代金はどう見ても1千万円近く不足する。銀行はどこも貸してくれない。それを東芝クレジットに紹介してくれたのは工時中の大工さんだった。保証人には死んだ長兄優忠の嫁の輝子とそのありがたい友福本とがなってくれた。輝子は優忠の後を継いで丸優食品の代表取締役を継いでいた。
2000.3.1 Vol.034

○第二十一号 揮八郎の三田屋1号店オープン
飲食業が繁昌する条件には幾つかある。色々な業態や店格もあるから一概には決めつけられないだろうが、筆者はつきつめたところ次の3条件だろうと思う。①うまい②ボリュームがある③安い。ゆき届いたサービスや高度の調度品やピアノの生演奏などのある雰囲気などはあるに越したことはないが、いくら装飾や器が立派でムードに溢れた店で、洗練されたサービスがあっても提供する料理が苦味(まず)ければ客は来ない。価格が高過ぎれば敬遠されよう。そしてボリュームは案外軽視されがちだがこれを無視して成功した例はない。

適当なというより少し多い目のボリュームは絶対必要なのだ。何人かの客がたとえ食べ切れなかったとしても。

さて昭和56年6月26日、揮八郎の店「三田屋」1号店はオープンした。山口町名来(ならい)という片田舎の四軒長屋の15坪の店は僅かに18席しかとれない。資金不足から世間並の内装を施すことは出来なかったが揮八郎の気持ちは満ち足りていた。厨房機器もクーラーも食器も、テーブルや椅子も揃った。それらは新品を買える筈もなかったので、すべて中古品だったが部品交換や修理を施した上ピカピカに磨き上げた。ハムスライサーは業者にたのみ込んでタダでもらってきた中古を磨き上げたものだ。

その日の朝、揮八郎は5時に店に入る。8時と開店直前の二度、店の前に水を打っている。はじめての独立開店の心境は誰しも不安がつきまとうものだ。揮八郎はこの店の売上げは月商150万円なければやっていけない、と読んだ。店員を2人雇ったのでその給料、家賃が15万、水道光熱消耗品などしめて80万円の経費が要る。食材費は45パーセント。これで自分の給料はゼロである。月150万円以上売上げが上がれば自分の給料も幾分かは入ってくる。そんな計算でスタートした。メニューはランチとディナーの二通りを用意した。店の周知性を広げるためにはランチで人気をとるのが最も効率がよい。揮八郎はランチに全力を注いだ。ランチは開店から通しで午後4時まで950円で出した。(スープ)(ハムのオードブル)(大皿いっぱいにステーキ肉5切れ・有頭海老フライ2尾・貝柱のソテー・大盛りの野菜サラダ)(ごはん)。原価計算すると僅かに50円の利益が残る。これが大当たりした。客は行列をつくり順番を待つのに店の外まで続いた。
2000.4.4 Vol.035

○第二十二号 三ツの「三田屋」
揮八郎の三田屋一号店が山口町にオープンして一ヵ月の売上目標を3日間で達成してしまうという驚くべき幸運に恵まれた昭和56年の夏は既に述べたように廣岡兄弟が決定的に袂を分かつ熱い季節でもあった。
「桟輪會て未だ転せず、転ずれば必ず両頭に走る。」とは禅の言葉であるが、二年前の長男優忠と母きぬの急逝は十分にその兆しとなり得た。逞しき廣岡兄弟とはいえ二本の太いつっかい棒が外れたのである。この年を機に三ツの「三田屋」が誕生することとなった。

主人公揮八郎は開業の翌年昭和57年8月、(株)三田屋という商号で法人登記した。四男償治は昭和58年8月、揮八郎と一線を画すために54年に設立した(株)三田屋を(株)三田屋本店と商号変更した。一方当時(株)丸優食品の常務であった三男庸禎は昭和57年12月、(株)丸優三田屋を設立して三田屋を名乗ることとなった。その後、この法人は昭和59年にはざま湖畔三田屋本店(株)、昭和63年に(株)はざま湖畔三田屋総本家と二度改名したのであるが。かくして揮八郎の「三田屋」、償治の「三田屋本店」、庸禎の「はざま湖畔三田屋総本家」という三ツの三田屋が誕生したのであった。前二者はステーキハウスを経営し、ハムの製造販売を。後者はハムの製造販売をして今日に至っている。尚、書き忘れるところだったが、袂を分けたもう一人、二男駿治も、(株)廣岡家三田屋本店という小規模ながらハムの製造販売を業として「丹波三田屋」の名でハムの販売店を持っているので正確には4ツの三田屋が存在すると言わなければならない。

読者にはさぞかし複雑であろうが、昭和56年の分裂劇はそのような形となって現在に至ったのである。筆者はこの物語を五男の揮八郎を主人公として書き進めてきたが、その理由は廣岡家の生存する三人の兄弟の中でステーキハウスで客に夢を売り、ハムを造って全国の食通に「味」を売り続けているのは唯一人、揮八郎だからである。惜しむらくは四男の償治である。続編で記述することになるが、揮八郎と共に家を出て湖畔のレストランを開業し、死の直前の昭和62年の春には、三田市のニュータウンに能舞台付きの大ステーキハウスを開店した彼であったがその夏帰らぬ人となってしまった。(注・現三田屋本店は故償治の妻房江が代表取締役として後継している。)

さて揮八郎の三田屋一号店は日の出の勢いが続いた。昭和49年マイナス成長に陥った日本経済も8年たってそろそろ上昇気流にのった。その追い風も味方した。開業の翌年、昭和57年には一挙に三店舗を新設することとなるのである。筆者は人間の持つべき大切な要素のひとつとして「勇気」を挙げるが、その勇気は自信を積み重ねることで生れるものである。揮八郎の勇気はこの頃から醸成されはじめたと観てよい。
2000.5.9 Vol.036

○第二十三号 兄、廣岡償治のこと
揮八郎の兄償治(四男)は昭和62年8月13日、43才という短い生涯を終えた。葬儀を終えた揮八郎の手記があるのでここに全文を紹介しよう。

『四男償治の告別式は今にもおちてきそうな雨雲の中で行われた。琴が流れ、かがり火とタイコが打たれ、そして歌曲を女が歌った。それは生前の兄でしかできない見事な演出であった。長女が涙の弔辞を読んだ。はざま湖畔は白い高級車が無数に並び感動の波で揺れた。自らの演出で自らを葬った兄償治にとって、これが最後の仕事となった。

思えば兄償治と私。四男と五男。五兄弟の中でもとりわけ二人の行動はいつも同じであった。兄の残した手記やTVの録画をひもといてみても、まるで廣岡の兄弟は兄と私だけの印象を与える。

長男が設立した丸優食品から二人が抜け出して、三田のはざま湖畔に「三田屋」というステーキレストランを創ったのも兄償治からみれば償治と私だけが兄弟であったのかも知れない。やがて「三田屋本店」から独立して私が「ステーキハウス三田屋」を西宮北の山口町につくった時、償治は猛烈に反対した。

その後、私は西宮北インター店をつくり、明石や大久保、北野坂等15の店をつくった。償治はそのたびに私を非難した。今、ふり返ると、兄はたった一人の私が兄からどんどんと遠去って行くのがたえられなかったのかも知れず、兄償治が自らの運命をすでに予見していたということであったのかも知れない。

三田と山口町と、車で走れば十分程の距離に居ながら、兄と私がこの六年間に出会ったのはたった一度だけ。今から三年前の夏のある日、私の従業員が十数人徒党を組んで会社を去った、その日である。それを聞きつけた兄は主張先から飛んで帰って来て、スタッフを欲しいだけ使えと云う。私は思わず涙して了った。結局運のよかった私は十数人の社員を自ら補充できて事無きを得たが、その日のことは一生忘れられない。

死を宣告されて余命もあと二、三ヵ月と知った兄は坊主頭に剃ったが、日に日にやせて行った。「食文化」を早くから訴え、「食事の割合は二割」と言って、レストランの中を陶芸家や園芸家、ミュージシャンや能楽家たちで一杯に埋め尽くした兄は「時代の窮児」「世紀のエンタティナー」としてTVや新聞で注目されたが、兄の集大成は何と云っても一万一千坪の敷地に「能舞台」を擁した「やすらぎの郷・三田屋本店」を完成させた事であろう。兄は能舞台の床下に兄自らが焼いた「三田青磁」の大壷を埋めた。兄はそこに自らの「魂」を入れたのであろう。痩せ細った病床の兄は最後の力をふり絞って舞台披きの四月三十日、病院から特別の許可を得て舞台にかしこまった。TVで放映された兄のその姿、それは兄自身ではなく、もう青磁の中の兄の魂であった。

それから三ヶ月後、ついに兄は逝って了った。時間で量れば短い兄の事業歴であったがその中には数え切れないほどの業績がぎっしりと詰まって、まさに超人的でさえあった。』
2000.6.15 Vol.037

○第二十四号 水のように
揮八郎が兄、償治を畏敬(いけい)する一方で、訣別に至った原因については既に述べた。償治が能舞台付きの大レストランを完成させながら43才という若さで急逝したのは惜しまれるが、筆者はこの稀なる才能を持つ二人に決定的相違点があったことを見逃すわけにはいかない。短く言おう。「攻」一辺倒であった償治が「水」を枯らしたのに対し、「攻守」を弁(わきま)えた揮八郎は瑞々しい「水」を貯えたことだ。水は万物の生命の源である。

飲食や食品づくりを本業とする揮八郎であるから当然のことながら水とは深いかかわりを持つのであるが、彼の水に対する思い入れは尋常ではない。それは恐らく彼の本能なのであろうと思われるが、揮八郎は「水は大切だ。特に水が淀みなく流れることが肝要だ。」と厨房や洗面所には特別に念を入れる。一番にお金をかける。工事の設計においても一番最初に排水路に線を引く。揮八郎のレストランにはさまざまな水のアートがある。音曲に合わせて七色に舞う「噴水」、店内にゆらゆらと揺れるファウンティンアートはドイツとイタリアから直接買ってきた。店内庭園の中にも筧(かけい)とつくばいや小さい池等をあしらって水を流す。坪庭のある男子小用トイレは滝水がガラスに落ちる。彼はこれらの水たちの動きに囲まれて「アルファ波」を呼び寄せてアイディアを涌かしているのか。

水は天地の間で大循環をくり返す。それは人の体内においても同じである。自然も、人も、そして人の創造物も宇宙である。宇宙に存在するものはすべて自然の摂理に従って動く。さて「水」は一体どのような性格を有する自然なのであろうか。無為自然の道を説いた「老子」は「上善は水の若(ごと)し」と説いた。最上の善は水のようなものである。水が上善である理由は三つある。第一に、水は万物に利沢を与える。天地の間に水なくして存在するものは何ひとつない。それほど大きな存在でありながら水は他との功名を争うことはしない。第二に、人間は一歩でも高い位置を望むが水はその反対に低い所へ低い所へと流れて行く。第三に、低い所にいるから自分が大きくなれる。谷川を流れて大川となり、さらに流れて海となり大きな存在となる。と説明している。

揮八郎の三田屋の「ハムしおり」には次のように書かれたページがある。
――「ほんもの」が消え去ろうとしている昨今、私はたとえ売上高で他人に越されようとも、私に与えられた「私の寸法の場所」をかたくなに守り続けたいと思っています。――

そこには揮八郎の攻守を弁えた「自然体」がある。筆者はそれを「水のように」と読んだ。
揮八郎が兄償治と決定的相違点を持ったのは、その「水」なのである。
2000.7.11 Vol.038

○第二十五号 「事業墓」予言
江戸時代に生れた「心学」という学問がある。神教、儒教、仏教を融合した、心を修養する学問とのことだ。京都下京区に「心学相舎」を名乗る田口惟胤という師がいた。揮八郎は昭和56年の春、一号店となる山口店の内装図面を鑑(み)てもらうために、はじめて師を尋ねている。揮八郎は一号店の玄関の位置、厨房やトイレの位置を方位学の説明をうけながら師の指示に満足した。そしてその日図らずも、揮八郎は本名「喜八郎」から「揮八郎」へ名相改めをうけた。田口師は、喜八郎という名も悪くはない。事業にも成功するだろうが長続きできない。短命だ。揮八郎の方が事業も寿命も長命だ、と説いた。揮八郎は方位学の説明にはなるほど肯けるものがあったが数理剖象というはじめて聞く用語の解説は何のことか分からない。分からないが素直に従った。揮八郎はこの時兄の三田屋からも、本家の丸優食品からも縁を切って独立して店を持とうという直前である。揮八郎が何かに縋りたい心境にあったのはたしかであろう。しかし揮八郎は黒々と認められた「正名」を受取るや、自分自身に鞭打った。名が改まっても自分が奮闘しなければ何も変らない。すべては自分自身の中にある。と強い信念を抱くに至ったのである。その田口師は平成7年に他界したが、それまでの間揮八郎は人生の師、心の師として師事した。

昭和60年8月26日、揮八郎は「事業墓」を建てた。それを前に揮八郎が田口師の指導を仰いだのは言う迄もないが、彼は師から次のような謎めいた予言を聞かされている。「墓を建てると不浄が去って行く。廣岡さんあとを追ってはいけませんよ。今廣岡さんの会社には結構その不浄の分子がいるようです。その分子とは廣岡さんの意に添わない人達なのですから早く去ってもらう方がいいのです。墓参した分だけ早い結果が出ます。」開業以来丸4年だが、揮八郎の三田屋はこの僅かな期間に11店舗ものステーキハウスを擁していた。正社員も90人もいる。新規出店候補地もまだまだ数多寄せられ、従業員も取引業者も銀行までもが日の出の勢いの三田屋を注目していた、そんな時であった。揮八郎にすればこれまでの成功の感謝と事業安定の祈願をこめて事業墓を建てる気持ちになったのであったが、図らずも師から聞かされたことはかなりダイナミックな様相を含む言葉だったのである。揮八郎は墓を日参した。墓地を掃き清め水を打った。墓ができて九日目の事だった。信じられないことが突然に起った。師の予言が現実となったのである。番頭格のHが20人近い従業員を煽動した上で揃って辞表を持参したのであった。揮八郎は驚かなかった。ただ師の予言に空怖しさを感じた。驚いたのは穴埋めのために急拠人事募集の広告を出した日に、信じ難い数の応募者が来社した事だった。しかも有能な人材が夢かと疑うほど集まった。人事が刷新した。浄化したのだった。師の予言は劇的で画期的な形で現実となった。揮八郎はこの出来ごとを一生忘れることはなかろう。今日揮八郎が企業の安定を築く精神的礎を得たのはこの一瞬とも言える出来ごとだったし、この日を境に彼は最も不得手としていた人事にも目覚めた。筆者は揮八郎の運命を考えないではいられない。この劇的な日のことは田口師の「心学」の教えが事業墓を介して揮八郎を動かしたに違いないのだが、田口師との出会いそのものにである。
2000.9.5 Vol.039

○第二十六号 「商」から「工」へ仕掛け七分
企業経営に必要なのはヒト・モノ・カネの三位一体と言われる。筆者に異論があるはずはない。ただこのうちの何が最も必要かと問われれば迷わず「ヒト」と答えるであろう。揮八郎が事業墓を建てた昭和60年の夏以降、京都の心学相舎の田口惟胤師から予言された通り、一挙に三田屋の人事が刷新したことは前編で述べたが、これを機に揮八郎が最も苦手で不得手とした「人事=ヒト」に目覚めたのは大きかった。いわば揮八郎の三田屋はこの時はじめて企業の「体」を整えたのである。同時に揮八郎自身が開眼した。

振り返ってみれば昭和56年夏、無視本に等しい揮八郎が借金をして山口店を皮切りにわずか4年の間に西宮北店、阪急北口店、三木店、明石店、鈴蘭台店、大久保店、姫路店、北野坂店、西宮北インター店、豊中南店と、11店舗ものステーキハウスをオープンさせたのである。周囲は急成長、驚異的飛躍ともてはやしたが、筆者はこのときが揮八郎の機器だったと思っている。企業経営はそれほど甘くない。バブル期にそごうの水島会長を経営の神様と呼んだように、巷間の評論家ほど無責任なものはない。筆者は企業経営とは一歩一歩階段を歩んで上るものだと思っている。ある数してエスカレーターやエレベーターで急上昇すれば必ず急降下するのだ、と思っている。その最大の理由は急成長に「ヒト」が追いつかない、整わない、と思うからである。

しかし揮八郎は事業墓によって救われた。彼の恵まれた運命である。そして揮八郎自身、次のように開眼したのである。それは飲食業をサービス業即ち「商業」から「工業」の精神(こころ)に切り換えることであった。一言で語るならば、よく仕上がったもの、自分が納得できるものしか売らない、という精神(こころ)である。そして職人になり切ろうという実践が始まった。「仕分け七分」の職人ごころとの奮闘であった。「仕掛け七分」とは。草柳大蔵さんの解説を引いてみよう。

「職人ごころの『仕掛け七分』というのがある。それは名人上手と言われる職人さんの仕事場にはひとつの共通項があって、彼らの仕事場を早朝のぞくと、物が納まるところに納まっており、刃物はすべて磨かれ、土間に帚目(ほうきめ)が立っている。仕事にとりかかる前、段取りがうまく運ぶように準備しておく。これがしっかりできていれば仕事は七分通りおわったようなものである。即ち時間の上に仕事があるのではなく、仕事がうまくゆくように自分の時間を創造してゆくのだ。」

揮八郎の収穫はまさに時間の創造にあったのである。心にゆとりが生まれた。足で踏みしめて階段を一歩一歩上りはじめたのである。

「私はたとえ売上高で他人に越されても構わない。本物が消え去ろうとしている昨今、私ひとりでもいい、私の与えられた寸法の場所をかたくなに守り続けたい。」と「食は芸術」を標榜しはじめたのであった。
2000.10.11 Vol.040

○第二十七号 金仙寺湖畔のレストラン
揮八郎が仕事の姿勢を「商」から「工」へ変革したことは今から振り返ると画期的なできごとであった。あるいは揮八郎の先見が働いたのか。私たちはそのわずか4年後に「平成バブル」というとんでもない経済災禍に見舞われるのだ。開業から4年間無謀と思われる出店ラッシュを続けてきた揮八郎はこの理念の変革期を境に文字どおり「工=つくる」に専念した。先ずハムの工場にドイツの有名ハムメーカーのスモークハウスを導入した上数ヶ月をかけて改造した。コンピューター制御を解いて手動に切り替えるという揮八郎独特のやり方だった。「パスチャー」はこの期に完成したウィンナーソーセージだったが見事なほどの格差商品として今も君臨し続けている。ハムと並んでレストランで人気を定着させている「生ドレッシング」の手造りの機器類をすっかりと入れ替えて、より衛生面に気配りを施した。この間揮八郎はドイツ・スイスに旅行して本場のハム・ソーセージ工場を見て回るが彼地との味覚の違いや気候、とくに湿度の違いを見てとり僅か香辛料を参考するにとどめてあとは独自の方法で商品開発に取り組むことになる。こうして揮八郎の「商」離れはバブルを越えて平成4年まで7年間も続いた。

揮八郎は7年もの間じっと内を固めたのだ。

ただこの間にひとつの買い物をした。バブルの到来する3年前の昭和61年、揮八郎は金仙寺湖の畔の土地を買った。金仙寺湖は中国道・西宮北インターから有馬温泉への道筋を少し外れた六甲カントリークラブと西宮高原ゴルフクラブに挟まれた緑の環境の中にある。標高300m余りの形のよい丸山にはむかし城があったというが、その丸山が湖面に緑をおとし、湖の周囲は桜の木でおおわれて人々にやすらぎを与える景勝地である。昭和61年当時はその湖から夙川や西宮市街地には七曲りの船坂峠を越えなければならなかった。揮八郎はスイス旅行中に見た山小屋のレストランが忘れられず、この湖畔は絶好のロケーションだった。地主となかなか折り合いがつかず思ったより高値で買うことになり廃水にも相当金を使ったが2年待って自らデザインしたステーキレストラン「金仙寺湖畔三田屋」を建てた。63年の8月のことだった。

あれから13年が経過した。

この間船坂峠を越えた山道は盤滝トンネルができて僅かに20分で楽々と夙川や逆瀬川の住宅街に行けるようになって車の往来が激しい道路となった。しかし桜並木は春爛漫を装った。秋の丸山は紅葉が錦の織物をはおって六甲山系から注ぐ水をたたえる湖面にあざやかに映って美しさを保っていた。揮八郎は三田在住の画家佐崎紘一の油彩画を10数点もロビー通路いっぱいに飾り、京都の書家井幡松亭の大書した「運樹」を壁一面に装った。長谷川重一や丹波焼きの清水千代市の皿や壷も置いて、レストランのアプローチはさながら美術館に仕立てた。客はそのギャラリーを通りテーブルの置かれたフロアーに入るやその景観に再び驚いた。湖に面した大きな一枚ガラスから湖とそして形のいい丸山が一瞬にして目にとびこんでくる。ホールには白いピアノがあって昼も夜も華麗なドレスを着たピアニストが快い音を奏でてくれた。湖に面して右側は背の高い青々とした竹が風にそよぐ。左側には揮八郎がドイツで探してきた音楽にそって舞う色つきの噴水がある。にくいほどの演出である。客は喜んでくれた。桜の季節のあのレストランの光景が今も目に焼きついている、とフランスから着た客が今でも手紙を送ってくる。ところがこのレストランのその窓面の僅か35メートル先に湖中に橋架を組んで阪神高速の道路が湖上を横切ろうとしているのだ。湖水の中にあった冷たいばかりのモノ言わぬコンクリートの橋柱が今や揮八郎の長年の夢も、喜んでくれたレストランの客の夢もなぎ倒してしまおうとしているのだ。
2000.11.15 Vol.041

○第二十八号 ほんとうの「勇気」
物語りの進行から外れてしまうが今回読者に対して筆者からお願いがひとつあります。前号の物語りの「金仙寺湖畔のレストラン」についてである。筆者はこのダム湖中に冷たいコンクリートの橋脚が立ち、阪神高速道路が走ることによって、レストランからパノラマ状に広がった湖と丸山のすばらしい景観が遮断され、客の夢も長年苦労した揮八郎の夢もなぎ倒されてしまおうとしている。と書いた。ところが揮八郎の事務所には「揮八郎さんは金仙寺のことになると何故そんなにムキになるのですか?橋ができて逆に違った景観が楽しめるかも知れないのではないですか?」とか、「高速が中国道とつながって便利になるからいいじゃないの」とか、「三田屋は阪神高速から迷惑料をしこたまもらったのでしょう。」等という電話やファックスが寄せられたらしい。

筆者からお断りとお願いがあります。この物語りを揮八郎を主人公に三田屋を書いているのは揮八郎ではなく筆者であること、したがって物語りの中でムキになっているのも揮八郎ではなく筆者の思いであることをご理解いただきたい。揮八郎はこの件に関してはむしろ淡々としている。「お役所が決めてしまったことは、何を言っても変ることはなかろう。これも運命というもんだ。金仙寺湖畔の運命、レストランの運命、私の運命。」いつものことなのだが、じめじめとは考えていない。「ただこの湖は西宮北部の人々の水ガメなんだが、方々で河川の堰が問題になっているが、大きなコンクリートの柱を湖の中に立てて何も問題ないのだろうか。」という心配は、していた。ただ最後の問題に対しては是非とも誤解を明らかにして欲しい、と呼び出しを受けた。阪神高速からは一銭の補償金も貰っていないこと。それどころか道路に一部ひっかかるからという理由で第二駐車場の土地の一部を無理矢理とられようとしていること。

((注)公団の決定で揮八郎の購入価格の二分の一の価格で買い上げようとしている。)「私はかつて、コンクリートの橋脚を湖の中に立てるのは、どう考えても納得いかないんで、レストランの真上に道路を通して構わないから湖の中は汚さないでくれ。といったんだが・・・。」それも聞きいれられなかったこと。この三つのことは是非書いて読者に知らせて欲しいとの事であった。筆者は揮八郎の性格を熟知しているつもりだ。彼がこの件で怒りを持っているのは「お役人の態度」だけだ。「お上(かみ)が決めた事は私たちではどうにもならない。」といういつもの役人の口上だけだ。

筆者は今ここに一片の切り抜きを大切に持っている。今から七年前、13才のセブリン鈴木という少女がグローバルフォーラム京都会議でした話だ。

価値観の転換はどうすればいいのか、と一生懸命に話している大人の人たちを見ていると、複雑なことを考えすぎて、簡単なことを忘れてしまっているように思うのです。私は21世紀に21才となります。あなた方の残した地球で生きることになるのです。
中略
私には、貧困や公害をなくすことのできるお金が破壊や殺人のために使われていることが不思議でなりません。でもきれいな空気、水、土がなければ、どうやって生きていけるというのでしょうか。
あなた方はどうしてそれがわからないのですか。
大人は子供の見本なのです。
子供にとって、あなたがモデルなのに、子供とあなたと違う行動がとれるでしょうか。でもあなた方はどうして、いけないことばかりしているのですか。
中略
すべてはあなた方の時代から始まっています。そして「まだ大丈夫、まだ時間がある」ように振る舞っています。
死んでしまった川に鮭を呼び戻せますか。砂漠になってしまった森を元に戻せますか。
あなた方は私たちのモデルです。
私たちはあなた方のようになろうとしているのです。どうかお手本を見せてください。勇気を失わないでください。どうして変化を恐れるのですか。
最後に、世界中の子供たち、未来の人たち、動物、植物を代表してたずねます。
「あなた方は何を遺産として私たちに残してくれるのですか。」

今回、筆者は三田屋物語からすっかりと外れてしまった。しかし物語から外れる機会をつくってくれた読者に感謝しないではいられない。私たち大人は勇気を持たなければならない。
「引き返すことってそんなに恐いですか。先にすすむことそれは恐くないんですか。」倉本聰はこう言っている。いい大人だっているのだ。
(つづく)
2001.1.1 Vol.042

○第二十九号 揮八郎流リーダーシップ その①
東西を問わず経営者のリーダーシップが問われて久しいが、筆者の感ずるところ、この問題は永遠のテーマではなかろうか。何しろこれ迄何千年の人類の歴史の中で一人として真のリーダーシップを発揮し続けた人は見当たらないからだ。世界中が皇帝の代名詞として今日も呼称するジュリアス・シーザーさえ、命をも助け寵愛し続けた腹心のブルータスによって殺されてしまったのだから。しかしイタリアの普通高校の社会科の教科書では2000年を過ぎた今も次のようにシーザーの指導力を讃えている。

指導力に求められる資質は次の五つである。(1)知性(2)説得力(3)肉体上の耐久力(4)自己抑制の能力 (5)持続する意志 シーザーだけがすべてを備えていた、と。

ともあれ私たちは企業経営がひとりの有能な経営者の指導力によって発展した例をたくさん知っている。そしてその有能な経営者が築き上げた業績もひとたび経営者が更迭することによって転落の詩集を綴った多くの例も知っている。まさに企業は人なり、であろう。

さて、揮八郎のリーダーシップはどうであろうか。五人兄弟の末っ子に生れ父母と共に兄弟全員が家業を営む、という環境の中で彼は常に受け身に立たされたであろうと推測できる。上から飛んでくるのは、あれをやれこれをかたづけろという指示ばかりであったことだろう。そうした慣習は彼に独立心を植えつけはしたが人に指示を与えたり人を引っ張っていく道は育てなかった。故にいみじくも早逝した四男の償治が揮八郎の独立の蔡、馬鹿なことは止めろ、お前が人を使える筈がない、と怒るように云ったのは正鵠を射ていよう。まさに揮八郎最大の弱点はほかでもないリーダーシップであった。

揮八郎が彼の従業員と共に「旅」をはじめたのはいつ頃からのことだったろうか。2人ずつの社員を順番に海外に連れ出すことがいつのまにか慣習となっていた。ハム・ソーセージの研修、ワインの買付けや地ビール視察といった直接商売に係わる旅もあったが、特別の用事のない旅もしばしばあった。ところがどちらのケースにしろ揮八郎にとっては意図した旅であったのである。これは13、4年続いて今もなお続けられている。揮八郎の意図は旅行中に社員ひとりひとりをよく知ることであった。むかしから「部下は3日で上司を知るが、上司が部下を知るのには7年の歳月を要する。」と言われてきたが、彼はリーダーシップの真髄は部下を知ることだと直感が働いたのかもしれない。いざ旅の目的が決定したことを聞いた社員二人はどんな準備をしたか。飛行中のウェイター達のサービスやホテルのベルボーイや受付けの態度は。ホテルの内装やレストランのつくりは、サービスは、料理は、同行した二人の社員がそれぞれに対しどんな感受性や感性や知性を持つかを密かに知ろうとしたのである。ユニークな揮八郎流社員教育の一端である。
2000.3.6 Vol.043

○第三十号 揮八郎流リーダーシップ その②
揮八郎流社員教育となる社員同行の「旅」は海外に限らず国内でも盛んに実行され、今も続く。飛行機や列車を利用することもあったが多くは揮八郎の自家用車が用いられ、揮八郎が運転した。車という個室は旅を同じくする者との余人はばからぬ格好の会話の場となる。

「旅」という文字は、見知らぬ土地に向かって旗をたてて「人がふたり」行く、と書く。
「一瞬を心に刻むことの出来る人こそ、真の旅人であり、その一瞬を発見しに行くことこそ本当の旅人なのだ。」と文明評論家の森本哲郎さんは言うが、揮八郎自身と、同行する社員たちにとっては、その旅先で発見する「一瞬」こそ貴重なものであった。さらに揮八郎にとっては社員たちがその一瞬をどのように感受するかを発見する絶好の機会ともなり得るのであった。揮八郎と同行する社員はほとんどの場合2人であったが、3人の場合もある。もともと旅は旗をたてて行かねばならぬ程見知らぬ土地を目指すのであるから、又その文字の生い立ちは旗のもとにはもっと多数が率いられたと想像できるのであるが、「人がふたり」と書かれてある。それは何故か。もう一度森本哲郎さんの著書を引けば、「旅は日常の世界を遮断する。旅人ははるかな道のりを超え、異郷ではじめて自分自身とめぐり合う。」と言う。旗を立てて行く旅のその「ふたり」とは自分と、もうひとりの自分、というふたりだったのである。つまり旅は「自分探し」なのだ、と文字は語っているのである。たしかに揮八郎自身にとっても、同行する社員たちにとっても旅は自分自身とめぐり会う、という謙虚な機会を与えてくれたのであった。

この世の中で最も難しいものは「自己を知ること。」最も優しいものは「他人に忠告すること。」と言われてきたが、揮八郎自身は数多くこの旅の実行からそのことを学び、そして今も学びつつあるのだと思う。即ちリーダーシップの真髄は「部下を知る」ことをはるかに超えて「自分を知る」ことであったのである。

ナポレオンは重要な新しい仕事が生まれたとき、最も忙しい部下にそれを命じた、と言う。
ナポレオンに限らず今日どの企業の命令系統の現実もそうなのである。有能なスタッフは時間の創造力に優れているものだ。時間の創造力は「先見力」でもある。さらに先見力を有する人は常に「アイデア」涌出力に優れている。私達はふだん見落としがちなのだが、企業の存続はアイデアの連続性に支えられているのだ。事業を成すにはイマジネーションと情熱のふたつが必要なのだ。伝統は革新の連続なのだ。

揮八郎のこの旅は自分探しと同時に「忙しい人」探しであると言える。あるいは「忙しい人」創りと言い換えてもよい。
2001.4.3 Vol.044

○第三十一号 揮八郎流リーダーシップ その③
リーダーシップの真髄が「部下を知る」ことを越えて「自己を知る」ことであったとしても、経営者の焦眉の問題は一日も早く部下を知り、部下に適したポジションを与えなければならないのが実相だろう。よいシステムの上に適材適所が図られるならば企業は成長できる。その点、揮八郎流リーダーシップ「社員同行の旅」は手っ取り早いユニークな手法と言ってよいだろう。

「およそ人を扱う場合には、相手を論理的の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということを、よく心得ておかなければならない。」と言ったのは「人を動かす」を書いたアメリカのD・カーネギーだったが、経営者が部下と接する場合にも参考としなければならない。しかし参考にするのは部下が経営者に対する場合に限って少々異なる行動をとる。という点においてである。部下ならば特別な例を除いて間違いなく「上司に認められたい」「偉くなりたい」のであるから、そのため普段と違った態度をとることがある。だからと言って経営者はそうした部下の態度を非難してはならない。なぜならば人間は誰しもが「偉くなりたい」という向上心を持つものだからだ。リーダーシップの真の難しさは実にこの点に存在する。経営者の資質や大きさも、品性さえもここに隠されていると言ってもよい。そうした部下のベールの下をのぞいて「長所」を発見する。そして部下が「自ら働きたくなる」気持を引き出すのだ。その上で経営者は部下の努力を待つこととなる。部下の成長はいかなる場合でも、本人の努力の結果以外にはないのだから。

ユニークな揮八郎流の「旅」は彼の従業員に「一流」を体験させる目的を持った。ホテルや旅館は必ず土地の一級を予約した。レストランも土地の超一級を選んだ。そこでは一級のワインと料理を注文する。相当な投資だ。相当な投資なのだが、ここが揮八郎の優れた長所で実に金ばなれがよいのである。ホテルであれ旅館であれレストランであれ、「一流」と呼ばれ続けるのには「何か」がある。建物や内装、器も料理も一流に違いない、のだがそれだけだろうか。スタッフ達の躾やサービスは?レストランでは揮八郎は必ず全体が見渡せる席に座るが、とりわけ欲しがるのは厨房が見えるテーブルと席をリザーブすることだ。コックが何人いるか。コックの動きはどうか。できれば厨房の香りを嗅ぎたいのだ。揮八郎は席に座る前に必ずトイレに行く。トイレがキレイに清掃されて活花がある店は間違いなく料理もよく、スタッフのサービスも怠りないものだ。そして最後に他のお客を診断する。一流の店には一流のお客がつくる。一流店の料理もサービスもお客によって鍛錬されるものだ揮八郎から初体験を受ける従業員たちは総じてその雰囲気に呑まれてしまって揮八郎が期待する答えは仲々返ってはこないが、それはそれで仕方なかろう。それでも投資しただけの価値は十分にある。従業員たちは「一流」を体験することによってはじめてレストランという全体像を知ることになるのである。
2001.5.8 Vol.045

○第三十二号 食は芸術(1)
「数学者」と聞けば筆者には最も縁遠い人として思わず敬遠してしまうが、その数学者の口から「情緒」とか「想像力」という言葉が零(こぼ)れてくると、おやっ、とふり返り、急に親しみさえ感じてしまうこととなる。岡潔の場合がそうで、文化勲章も受けた奈良女子大の教授であったこの数奇な数学者は生涯「人の中心は情緒だ。」と言い通し、実際に難しい数理をその情緒で解いた。そして「スミレの花はただスミレのように咲けばよい。」と有名な人生観の言葉をのこした。また、アメリカの数学の天才フリーマン・ダイソンは「人間の想像力は単なる絵空事ではない。人は心に描いたことをいつか必ず実現する。そのために神は人間に想像力を与えたのだ。」と言っているが、岡潔はその想像力こそ「情緒」のなせる術なのだと、言い切るであろう。岡潔は晩年(1978年死去)、日本人から人間らしさの象徴である「情緒」がだんだんと希薄になりつつあることに失望し警鐘を打ち鳴らしたが、筆者も同様である。さて、「美はこころの食べ物」と言われるが、美術の項目には次の五つがある。「絵画」「詩」「音楽」「彫刻」そして「建築」だ。アントナン・カレームと言う人はその建築の主要な部分に「菓子づくり」がある、と言ったそうだが、実に面白く又奥が深い。筆者は思わず「料理も建築だ」と叫びそうになったが、こころの食べ物「美術」こそ、どれをとっても岡潔のいう「情緒」と情緒がもたらす想像力のたまものである。料理が建築であり、即ち美術であるか、については読者の情緒に一任するとして、咄嗟に思い出したのはロートレックの言葉である。フランスの世紀の画家であった彼は、美味三昧(ざんまい)の料理人であった。彼は短い生涯を絵画と料理に全身を投げ打った人だったが自らの体験を次のように述べている。「芸術と料理は同じ特質を追及するという点で一致する。」力強い言葉である。料理は建築、いや芸術だったのだ。揮八郎が「食は芸術・三田屋」を提唱し、標榜し、全社員に奮起(ポスピタリー)を促したのは一号店をオープンして三年経過した頃であった。揮八郎の創出したこの標語は、その後三田屋の登録商標となったが、揮八郎はロートレックののこしたフレーズを知っていたわけでもなく、誰から聞かされたものでもなかった。敢て言うなら、揮八郎の感性、情緒から自然に涌出した言辞であった。揮八郎は元耒が職人肌なのであるゆえにロートレックと等しく、料理=芸術を固定したかに思えたが、実は違った。彼の情緒は、食=芸術として広く定義したのだった。「食」と「料理」とは違う。決定的に異なるのは「食」の主人は「食する人」、店で言えば「お客」なのである。つくる料理人や料理人の腕はあくまで「従」でしかないのである。即ち「食」はその主従が揃ってはじめて成り立つのである。料理人の料理が主人公となる料理=芸術と言うのとは随分と違う。
2001.6.12 Vol.046

○第三十三号 食は芸術(2)
「食は芸術」と聴けば、真先きに思いつくのが、イタリアのマンダーレ(食)である。今から600年前、イタリアのフィレンツェで花開いたルネサンスは、さまざまな芸術を生み出し、人々を美に酔わせ、その中でマンダーレ(食)も華麗な華を咲かせた。このルネサンスという偉大な「美の遺産」は、その後600年という悠久の時をえて、あるいは経済の成長をも犠牲にしながらも、イタリア人の手によって今日に引き継がれてきた。見事なるかなイタリア人、偉大なるかなイタリア人である。その彼らにとって、 「食」はアモーレ」(愛)とカンターレ(歌)とともに、人生の最も大切な部分であり続けてきた。そして彼らは、人生こそ「芸術」でなくてはならぬものと考えてきた。余談だが、ローマの終着駅テルミニ発フィレンツェ行の特急列車の運転手たちはフィレンツェ駅の到着時間は守るが、運転は自らが決める速さでないと承知しないというが、彼らにとって運転は芸術なのだそうだ。イタリア人にとっての人生のあり方の基本は、絶対的「家族主義」にある。中でも家族が揃ってする食事は、私たち日本人の食卓事情とは大いに異なり、愛であり、時には歌であり、人生そのものであって、何よりも優美で、楽しく有意義でなくてはならない。二時間をかけ、時には三時間にもおよぶ家族の会食こそ、かけがいのない大切な行事であり、家族の絆なのである。つくる人、食する家人が、会話を弾ませながら彩る大切な人生の部分なのである。筆者は、そのようなイタリア人を、しばしば「人生の達人」と呼んでいるが・・・。さて、揮八郎の三田屋が求める「食は芸術」は、レストランという劇場空間における会食によって、すべてのお客が、あらゆる点において満足を覚え、お客自身が「人生の達人」たる主役を演じることによって、はじめて達成されたこととなろう。そして、供する三田屋のスタッフ達が同様の満足の照り返しを享受するのだ。ゆえに三田屋では、お客を迎えるに当って、インテリアも器も劇場に相応しく優美さを備えていなくてはならず、店の内外の清掃は行き届いて美しく、とくに厨房など水回りは衛生的で、スタッフの服装は清潔、動作は機敏で、常識を弁(わきま)えた会話は優しい微笑を伴って快くなければならない。そして料理は料理人の真心が伝わる手造りで、お客の五感を満たし、何より美味しくなくてはならず、料金は適正でなければならないのである。こうしてレストランという劇場は、お客である主役を中心に、食事という芸術作品を演じ上げるのだ。例えば、高名なピアニストが、自ら陶酔する名演奏が出来た時を、「ピアノを弾いたのは神で、自らは観客席の中にあった。」と述べるように、供する人と供される人とが一体となって、はじめて「食は芸術」の峯は甚だ高峯である。これからまだまだ多くの力強い歩みが必要であろう。今月からは、全店長が揃う日を設けて、一日をかけて全ての店舗を回って草ヌキを実施するのだ、と言うが。
2001.7.10 Vol.047

○第三十四号 平成元年
物語を進める上で、ぜひとも書き留めておかなければならないエポックが年を隔てて二回ある。平成元年(1989年)のバブルの頂点の年と、平成7年(1995年)阪神淡路大震災の年とである。後者の年には揮八郎が外食産業のトップを切って近畿発の「地ビール」醸造を開始した年であり、思えばバブル崩壊後はじめて始動した年であった。
昭和64年1月7日は、昭和天皇死去によって新元号が「平成」と制定され、この日が平成元年の初日となった。筆者はこの日大阪の梅田の阪急から阪神のコンコースをJRの大阪駅まで歩いたが、人々も少なく、すべての店舗からはBGMが消され、まるで死の街を歩いているような異様な空気を感じたのでよく覚えている。かくして始まった平成元年は日本初の消費税(3%)導入の年であった。この春、日銀は9年2ヶ月ぶりに公定歩合を引き上げるが、12月までにさらに2度の引き上げを実施している。ソニーが米コロンビア、ピクチャーズを買収したり、三菱地所がロックフェラーセンターを買収したのは、この秋のことだったが、暮も押し迫り平成元年が終わろうとする12月29日には、上げ続けた株が遂に3万8915円という途方もない最高値をつけるに至った。この日が、バブルの頂点の日となった。株価は僅か4年の間に、3倍となったのである。
揮八郎は20代のころに一度だけ証券会社のセールスに勧められて株を買ったが、幸いなことに大損をした。それっきり株だけは絶対やらないと決めていたので、世紀の大相場にも全く無関心で通せた。そればかりか得体の知れない経済現象を遠花火を見るように楽しんでみることが出来た。難しいことは何も考えなかった。揮八郎がバブルという異常を肌で感じ取ったのは、たったひとつの身近に起こった変化だった。銀行が日参しだした。いくらでも出すから金を借りてくれ、と言う。折から世間では株高に沸き、土地が望外の値段で売れたと言っては大騒ぎしていた。そこへ平素寄りつきもしなかった銀行が、手の平を返したようにそう言うではないか。これが異常でなくて何であろう。銀行がおかしい。世の中が狂ったのだ。揮八郎の直感であった。揮八郎は経営に対しては絶対の自信を持ち、日々の出来事には動物的に近いカンを働かせてきたが、この正念場でも直感は正しく彼を導いてくれた。
経営者がもたなければならない資質は、決断力と実行力とである。(両者とも勇気を要する)異常を感じた揮八郎は咄嗟に決断した。「今は動いてはいけない。」バブルは揮八郎に経営の正道を教えたと言えよう。揮八郎は「運命」という言葉を、ことさら強く意識する。運命は宿業である。しかしどう切り拓くか、自分でどう造るものかも運命である。だから自分の行為に対して絶対に「いいわけ」をしない。そして、人の「いいわけ」を最も嫌う。
2001.9.4 Vol.048

○第三十五号 「フォーコ」と楽観主義
オリヴィエーロ・トスカーニさんはイタリアの有名写真家である。世界屈指のファッションメーカーとなった「ベネトン」を彼のアートとポスターが世界企業に押し上げたのであるが、人々は彼のことを鬼才あるいは奇才と呼ぶそうな。そんな彼をインタビュー取材した一人の日本女性がいる。フィレンツェに10年暮らした大阪在住の山下史路さん。インタビューの記事を紹介しよう。

夢は?
「夢は全くない。欲することは全部実現可能だ。夢見ることは好きではないし、むしろ敵だ。全部現実化しなければ。」
趣味は?
「趣味はない。私の人生が趣味だ。」
偉大な人とは?
「まず、運がよいこと。フォーコ(火)を持って生まれてきていること。そのフォーコが少しずつ大きくなっていくこと。それには運が必要だ。好奇心、楽観主義、実証性を持っていること。偉大な人とは、こう生きたいと欲求を持って生きている人のことだよ。」
「人が生まれてきて、ただ一つ、確実に分かっていることは、いつかは死ぬということだ。だから一回しかない人生を、生きているのか死んでいるのか分からないような生き方をするのは、私はもったいない。自分の身を削っても、なりたい自分、自分らしい自分自分にしかなれない自分に向かって生きたいと思う。それが自分の存在理由、アイデンティティーだ。」

インタビューを終えた山下さんは、トスカーニ氏は「フォーコ」のような人、全力で生きている姿勢が、たまらなく魅力的だった、と述べている。

長々と引用したのは、三田屋の廣岡揮八郎の生き方、考え方が、トスカーニ氏のそれと余りに相似しているからなのだ。たしかに「夢」は現実の中に存在する、人生そのものが夢とも言える、と筆者も思うし、欲することは全て現実化する、という火のような強い姿勢は経営者にとって何ものにも代えがたい決断と勇気を鼓舞する要素なのではなかろうか火のような志を抱くトスカーニ氏の言葉の中に、「楽観主義」を見出したのはおどろきだったが、流石に一流の人の言葉だと感嘆もした。継続は力だが、物事を成し遂げる火のような意志は仲々永続できない。それを楽観主義がのり越えさせるのだ。

バブルが崩壊して、すべての経済が急降下を始めた時、揮八郎は楽観力を発揮した。「備え」えをする絶好のチャンスととらえたのだ。彼は営業や販売のは見向きもせず、製造家としてふだんやりたくても出来なかった備えを開始した。ハムやドレッシングの工場と倉庫や配送センターの建設がはじまった。大きくはないが衛生と安全が完備し、機械がする仕事と、人間の手でしかさせない仕事明確に区分するシステムの構築が目標であった。機械の仕事は「智」につながり、手の仕事は「情」につながる。どちらも大切なのだ。工事はバブル崩壊で安く入手した土地の整備から始まったが、いつものように陣頭指揮をしたのは自らが運転するブルドーザーの上からであった。フォーコが燃えはじめたのだ。
2001.10.2 Vol.49

○第三十六号 平成七年一月十七日
平成7年1月17日、阪神大震災の朝。廣岡揮八郎がオーストリアのウィーンから購ってきた地ビール醸造装置は、6台のコンテナー運搬車によって、朱赤に塗装された西宮本社工場の床に運び込まれる手筈となっていた。

震度7。

揮八郎はコンテナーの置かれたポートアイランドの岸壁が壊滅的被害を受けたことをテレビで知らされた。

一国に一日半しかいないという常識では考えられない強行スケジュールでヨーロッパ6カ国の地ビール工場を見て回ったのは前年の寒波吹きすさぶ2月のことであった。

人は一生を通じて幾度となく運、不運に遭遇するものだが、揮八郎と地ビールの関係に限って言えば、それは交錯して訪れたように思う。

揮八郎が地ビール醸造を志したのは遡れば遠い昔、昭和52年夏のことであった。兄の償治とスタートを切った最初のレストランで、共にビール党だった兄弟は、美味しいステーキに料理においしいビールを造って飲ませたい、そんな会話が交わされた。その後兄償治はガンのために早逝してしまったが、兄のことを思い出すたびにビール造りのことが急(せ)かれるのであった。ビールを自分の手で造る。揮八郎は兄の分まで夢をつのらせるのであった。しかしその頃、ビール醸造の免許を取得するには、最低年間2千キロリットルを造らなければならない法律があった。2千キロリットル造る為にはかなり大がかりな設備がいる。並の零細業者の資金力ではどうなるものでもない。揮八郎の夢はついえたかに見えた。

揮八郎がニュージーランド通いを始めたのは平成2年の頃からであった。年に4~5回往復しただろうか。南島のマルボロ地方のブドウ園主にオリジナル白ワインの醸造委託するのが目的であったが、中継点のオークランドでは彼の夢を呼び覚ます、みごとな地ビールに出会うことになる。シェークスピアという名のブルーパブは、工場とパイプラインで直結した店で、でき立てのビールを飲ませていた。揮八郎はそのはじめて出会ったシェークスピアの店主に強引に頼み込んで、その後3年間で述べ35日間醸造技術を習うために工場に入ったのだが、当時ではビール工場を持とうという現実的な計画があったわけではない。

ところが平成5年12月、揮八郎にとっては夢のようなニュースを聞くことになる。細川内閣の規制緩和の目玉としてビール醸造の最低生産量が一挙に2千キロから60キロに引き下げられたのだ。年が明けるとすぐに地ビール先進のヨーロッパに出かけた。記述のとおりの強行軍だった。例によって即決契約したオーストリアのウィーンのメーカーからコンテナーが神戸ポートアイランドに入港したのが平成7年の正月。通関を済ませ、6台のトラックに積み込まれいざ出発という朝、大震災が港を襲ったのであった。地震は阪神間に未曾有の被害をもたらせた。揮八郎のステーキハウスはハーバーランド、北野坂、須磨浦など6店舗が壊滅的被害を受けたが、筆者はこの時、揮八郎のバイタリティーを見せつけられるのであった。
2001.11.15 Vol.50

○第三十七号 平成七年一月十七日(2)
震災によって、箪笥の下敷きになり、必死に這い出した作家の藤本義一さんは、助かった瞬間、「私は生かされた。」と思ったと述懐している。それまでの自分は、自分で「生きている。」と思って過ごしてきたが、この瞬間からすっかり人生観が変わってしまった。私たちは、この地球上に一人の人間として、動物の一員として生かされているのだ。同じ思いを体験された人も多かろう。

テレビに映し出された神戸ポートアイランドのコンテナー埠頭では、三菱倉庫が火災で燃え上がり、岸壁のコンテナーが数知れず海に落ち込んでいた。そんな状況の中で、その日三田屋の本社に届けられる筈のビール醸造装置は6台のトラックに載ったまま、車上で生かされた。

揮八郎は来日中の2組の外人を伊丹空港へ送り届けた。一組はそのビール醸造装置の組立のためにウィーンからやってきていた技師3人であり、もう一人はニュージーランドから来てレストランでピアノを演奏していたスコットランド生まれの青年であった。高速道路は方々で切断された。わずか伊丹空港までの走行に17時間かかった。大混乱がやや落ちつきを取り戻したのちも、大阪の百貨店へハムを届けるトラックも往復15時間を要した。揮八郎は、先ずは外人4人を無事帰還させ、従業員の無事を確かめ、本社近くに住む社員のみを通勤させ、あとはすべてに自宅待機の命令を出した。少数のスタッフに工場や事務所の修復に当たらせたあと、店舗の被害を見て回るのだが、容易にたどり着ける所はどこもない。

三宮市街地の惨状は驚きを通りこしていた。三宮から元町へ、歩いて見て回ったが、かつて経験のない頭痛と吐き気をもよおした。何しろ斜めに傾いた大きなビルが今にも道路に倒れかかってこようとしているのだ。実際にビルは目の前で猛烈な埃を立てながら崩れ落ちた。

須磨浦店と北野坂店は立ち直り不能であった。ハーバーランドのモザイクの惨状も見るにしのびず、ハムの店の三宮店の周辺は近づくことさえできない。金仙寺湖畔店の玄関近くの大窓のガラスは歪みに耐え切れず、大きな穴を開けていた。明石や大久保のインフラは長い間水道が停った。

須磨浦に出るには県道を一旦三木出て、ひと山超えて須磨寺の前の小路を抜け、国道に出るしか方法が見つからなかったが、揮八郎は自ら大型トラックをその道に走らせた。途中倒れた門塀などの瓦礫を除けながらの走行だ。何度か下車して道を造り、前進した。国道近くの惨状はより激しく何度も目をおおった。多くの旧家が折り重なって倒れ、火災で焼失した家並みが空しいスキ間を造っていたのだ。

人力で滅多には動かない店のグランドピアノが南から北へ大移動していた。転倒したテーブルや椅子、厨房機器、揮八郎と急遽応援にかけつけたスタッフ達の手で瓦礫と共に運び出される。破損したゴミはトラック一杯分もあった。

最後に店の隅々まで箒ではき上げた揮八郎は、淡路島の灯りであろう点のような灯りがかすかに映る暗い海に目をやるのだった。汗が引いて破れたガラス窓から冬の風が急に身体を冷やしはじめた。
2002.1.1 Vol.51

○第三十八号 平成七年一月十七日(3)
6千余の生命を一瞬にして奪った大震災は、死を免れた人々にも強烈なショックを与えずにはすまなかった。大自然の働きの中に、この世の無常を観(み)た人も多かったろう。又、所有することの虚しさを直感した人も。真二つに割れた高速道路や押しつぶされた高層ビルの惨状をテレビの画面でみた時、機械文明に疑いをもった人もいたであろう。建物の下敷きになった人を助け出さずにいられない衝動に動いた人。思わず炊き出しなどの救援に駆けつけた人。

それらは大袈裟に言えば大震災直後の神戸市街地の隅々まで広く漂った「人間回復」の空気であった。

渦中に広がったこのような空気や行動は決して知性や理性が動かしたものではない。人間の生(なま)の情動や情感が動かしたのだ。人類の歴史は、その情動や情感という感性の歴史なのだ、とエイリッヒ・フロムという人が言っているが、まさにこの時、神戸市中に人間の感性の歴史が蘇ったのだ。彼は現代人の感性の喪失を次のようにも述べていた。

「もともと情動や情感の歴史を365日にあてはめると、知と理の歴史はたった20秒にしかならない。それにもかかわらず人間は、知や理の中に溺れてしまう。だから迷う、だから不安、だから憂鬱、だから無気力、だから人が信じられない。だから人を愛することができなくなった。」

大震災は彼のこのような心配を一挙に吹き飛ばしたのだ。人々は気力を回復しなければならなかった。行動することに何の迷いもなくなった。人を信じることも、人を愛して生きることの大切さも鮮明に蘇ったことであろう。感性は呼び戻された。それはまさに人間回復であった筈である。

揮八郎は感性の人である。彼の私的行動も経営行動も感性に基づいている。彼はカンやひらめきを最も大事にして動く。論理は動きながら何とか格好をつけるのがいつものことだ。須磨浦と北野坂の店舗(レストラン)の惨状を見て、咄嗟に閉鎖を決断した彼ではあったが、揮八郎の気はその惨状禍には向かなかった。ポートアイランドの橋が回復して、孤立した地ビールの醸造機がいつ工場に運びこまれるか、ウィーンに戻した組立て士たちをいつ呼び戻すことができるだろうか、ただそのことに集中していた。うしろを振りかえらない、去るものを追わない、といった彼の習性はもって生まれた天賦というものなのであろう。二つの店を閉鎖し、四つの店がいつ再開できるのか目途さえつかないばかりか、日々の売上げも平常時の4割も見込めない状況下にあっても、彼の感性は彼を前に向かせたのだ。

揮八郎の願いは2週間後に満たされた。ポートアイランドに必死の復旧工事は仮架橋を設けてくれた。醸造機を納めた6基のコンテナーは西宮北の本社工場に何事もなかったように搬入されたのだ。
2002.3.5 Vol.52

○第三十九号 近畿第一号「地ビール三田屋」
神戸ポートアイランドで被災した6基のコンテナーは西宮北の地ビール工場に無傷で運び込まれた。ウィーンからの組立て技師やオペレーターも震災の日から18日目に再来日した。

工場に据えつけられたウィーンのO・SALM社の銅製の醸造機はピカピカに輝いて揮八郎を喜ばせた。この調子でいけば醸造開始は3月にできる。4月中旬にはいよいよ揮八郎の地ビール第1号が誕生する。

その頃、全国地ビール第1号となった新潟巻町の上原酒造は、すでにエチゴビールを発表していた。第2号となる北海道北見のオホーツクビールもサッポロビールの技術指導をうけて、3月には営業開始をする。四国では梅錦山川が先鋒であった。関西の日本酒メーカーの白雪も黄桜も、そして高槻の寿酒造も次々に参画してきた。

このような地ビール旋風の中で、酒づくりノウハウを持たないのは、揮八郎の三田屋だけであった。しかし揮八郎には自信があった。ウィーンの醸造技師に指導を受けるのを拒んだ揮八郎は、独特の物づくり哲学を展開しはじめるのであった。

ちょうどその頃、揮八郎は土地の新聞に記事を頼まれて書いている。醸造開始を前にした彼の意気込みや地ビールにかける夢が読みとれるので、その一部を紹介しよう。

「私の地ビール醸造の夢は故人となった兄償治(三田屋本店の旧社長)との共有であったが、愈々兄弟二人の夢が実現できる段取りのついた今感無量の想いである、償治もきっと喜んでくれるに違いない。
しかし私たちの夢は今始まったばかりだ。肝腎なのはこれからである。償治も私が本当に美味しい地ビールを造らなければ、真に喜んではくれまい。『いよいよこれからだ。』私は内免許の交付を受けた日、新たな緊張と決意に包まれた。
私はこれまでハム、ウィンナーソーセージ、生ドレッシング等三田屋のブランド商品を自らの手で作ってきた。又レストランの料理のレシピや店舗も自ら考案し設計してきた。
だが、地ビール醸造はこれまでの物づくりと全く異なる分野である。しかし私は『物づくり』には共通したものが存在していると確信している。それは熱意であり、愛着であり、執着であり、ロマンであるといってよいと思う。
芸術家は作品を芸術という名に相応しいものに完成させるとき(あるいはそう評価を受ける作品を完成させるとき)先ず、『幻想(ファンタジー)』を抱き、『イメージ』を涌かせて作品に取り組むに違いない。即ち物づくりには造り手のそれらの『気』が肉体を充満していなければならないと思う。私の緊張は1号記念ビールを造り上げるまで当然続くであろうが、私にとっては実に壮快な緊張である。
ビールの最高のあては『労働のあとの汗』と云われるが、私はこの緊張は私の人生の最高のあてでもある。」

揮八郎の地ビールが産声を上げたのは、平成7年(1995年)、あの震災の日からちょうど100日目に当たる4月26日であった。これは全国地ビール第4号となり、むろん近畿初、外食産業のつくる第1号地ビールとなった。

しかし、この第1号の味は、どんなにひいき目にみても30点のできであった。揮八郎の地ビールの味づくりの苦闘は、その日から始まるのであった。
2002.4.2 Vol.53

○第四十号 日本の地ビール史上にのこる
震災の年の1995年に誕生した日本の地ビール業者は12社であった。
その秋、この12社が東京晴海の「第一回日本地ビール祭」の会場にでき立ての地ビールを運び込んだ。

のちに(99年)集英社から「今宵どこかのBARで」という本を書いた作家の伊藤精介が、中央のブースに陣取った三田屋のカウンター前に長くはりついていた。
揮八郎はそんなことも知る由もなく、次々とくるビールマニアやテレビ、雑誌、新聞社などのマスコミの取材で、天手古舞していた。この日、揮八郎は自ら造ったビールと共に一躍スターにのし上がったのだ。
なぜなら12社を飲んで回った客や取材陣が再びカウンターを占拠したのは、三田屋の前、揮八郎の前だけだったからだ。

筆者もこの日揮八郎に同行した。作家の伊藤精介がひとり三田屋のカウンターで何度も肯きながら飲む姿を遠目に眺めてはいた。

彼はその日の様子を著書にこう書いている。
「風の吹くまま、嗅覚の向くまま、とりあえず、オホーツクビールから飲み始めた。二番目に飲んだのは静岡県の御殿場高原ビール。(中略)と、まぁ、そんなペースで飲みはじめて何番目だったろうか。ついに僕はその“珠玉の逸品”=神戸周辺でステーキハウスをチェーン展開している三田屋の手による地ビールに出会ったのである。」
「この時点で三田屋の生産していたビールは大きく分けて4タイプ。麦芽100%のピルスナー・タイプと、社長廣岡揮八郎氏の名前を冠した<揮八郎ビール>3タイプがある。いずれも下面発酵なのだがとにかくその個性的なこと。つくり手の情熱がひしひしと伝わってくる。<揮八郎ビール>タイプの内訳は、①芳ばしい香りの焙煎、②カラメル麦芽を使用した甘い芳香のブラック、③独特のスモーキー・フレーバーが忘れられないスモーク。
僕が完璧に脱帽したのは、このスモーク・タイプ。目から鱗が落ちるというのはこういう体験を言うのだろうか。かつて味わったことのない独特のスモーキーな風味が口から鼻にかけて、ふわーっと広がっていく。気が付くと僕は、各銘柄を1杯ずつ飲み歩くという暗黙のルールを破って、スモーク・タイプの2杯目を飲みはじめていたものだ。」

この作家はビールに限らず、日本全国のあらゆる酒を飲み歩いてこの種の本を何冊か書いているが、無類の酒愛好者であることは言うまでもない。
その彼が、「あの地ビールを、もう一度」と言って東京から西宮北の三田屋にやってきたのは二年半ごしのことであった。

その日揮八郎も筆者もはじめて彼と会った。そして彼はスモーク・ビールを飲む。二年半ぶりに会う恋人であった。彼の著書は、こうしめくくっている。

「僕はそっと瞼を閉じてその液体を口に含み、ゆっくりと咽喉を通過させた。たちまち独特のスモーキーな風味が口から鼻にかけてふわーっと広がっていく・・・。
これは間違いなく日本のビール史上に残る逸品である。そう呼ぶことに異議を唱える無粋者はいないだろう。」
2002.5.8 Vol.54

○第四十一号 地ビール醸造の心得
地ビールの解禁が発表された平成5年12月、全国の外食産業から参入の名乗りを上げたのは揮八郎の三田屋がトップで、それも飛びぬけて早かった。

揮八郎の言うには「夢でお告げを聞いた」のだそうだ。
揮八郎は男ばかりの五人兄弟の末っ子に生まれた。昭和52年に4番目の償治(昭和63年夏にガンで急逝)とふたりで三田屋をつくった。昭和56年揮八郎が償治と別れて独立、ステーキハウス「三田屋」を開業した際、償治は店名を三田屋本店と改称し、今日に至っている。この二人はとびっ切りのビール党。揮八郎といえば大学時代の友人瑞慶山(現在福岡県飯塚市で三田屋のフランチャイズ店のオーナー・三田屋開店前に廣岡家に寄宿していた)と毎晩のように自前の焼肉をあてに大瓶20本を楽々と空けたほどだった。「ステーキ店を開業した。ハムも造った。次は俺たちのビール造りやな。」当時の揮八郎と四男償治の日常会話であった。その償治は能舞台つきのレストランを完成したすぐ後死んでしまった。

ふり返れば当時の揮八郎と償治の抱く夢は壮大であった。家業の丸優食品では三田牛の肥育牧場管理を引き受けたり、ハム大手メーカーの下請け(加工前の肉処理)が主な仕事だったが、このふたりはいつもモヤモヤしていた。「育てた牛は神戸の老舗が買いとて神戸ビーフ、松坂の業者が買い取れば松坂肉、いいところは皆んな集散地の都会にもってゆかれてしまう。いつまでも育てることばかりではつまらん。第一、三田で育った牛が三田牛でなく、なんで神戸牛になるんや。」
「豚肉いうもんは、ていねいに塩漬けしてやれば10倍のうまいもんになるんや。メーカーは効率や体裁ばっかりを考えよる、全国津々浦々で大量にさばかんならんから長持ちせなあかん、増量剤も使いよるし、塩も多いし、添加物も多い、燻煙かて形ばっかりやから、買うて食べるときは香りも飛んでしもうとる。」

こんな不合理と不純な現実に反発し続けてきた揮八郎と償治は家人の反対を押し切って、三田屋を開業、うまい牛肉を直接に調理して客に提供、ハムも納得する方法で自らつくった。

次はビールである。揮八郎の夢のお告げは現実となり、これ迄に述べてきたとおり平成7年震災の年、全国の外食産業のトップを切って醸造に成功した。
醸造開始を前にして、「どんなビールを造るか」は大きな課題であった。だが揮八郎の決定はいつもながら早い。早々とビール醸造の方針を社内に発表している。次の通りである。

(1)ビールメーカーが造ろうとしても、やろうとしてもできない事をやる。
(2)その第1は、栄養豊富なビール酵母を生きたままお客様に飲んでもらう純粋ビールをつくる。
(3)そのためにフィルターも熱処理もしない。瓶詰や缶詰めはやらない。
(4)小売販売もしない。ビールの嫌がる遠くへの“旅”はさせない。
(5)大手メーカーが主流としているピルスナー中心に醸造する。そしてお客様に違いをわかってもらう。
(6)大手メーカーのように米やコーンスターチなどの副原料は一切使わない。ビール誕生時のままの純粋ビールのみつくる。
(7)流石、揮八郎の三田屋と肯いてもらえる特別ビールを二、三つくる。一つはハムのスモーク技術を応用した「スモークビール」これは世界に一つしかない。二つ目は「焙煎ビール」、焙煎はフライパンを使って麦芽を焙煎すること、機械は一切使わない。
(8)仕込みは週二回だけ。どんなに売れてもそれ以上は仕込んではいけない。あとの四日は醸造場の清掃。ビール醸造の心得の第一は清潔な環境。バクテリアが一度でも浸入すれば醸造場はやめなければならない。
2002.7.1 Vol.55

○第四十二号 信念
揮八郎が関西発、外食産業初の地ビールを発表した平成7年は、日本人の誰もが、強烈に記憶する年となった。
1月17日の未明、阪神淡路大震災は未曾有の規模で関西を襲い、高層ビルをなぎ倒し、高速道路を切断し、6千余の人命を奪った。

そして2ヵ月後の3月20日、東京の霞ヶ関ではオウム真理教の仕業によるテロ事件が起こった。「地下鉄サリン事件」である。
日本中が騒然となった。
この年ほどメディアが東奔西走した年はなかろう。

地ビール元年と呼ばれて先発12社が華々しくデビューした細川内閣の規制緩和の超目玉商品地ビール業界であったが、世間はそれどころではなくなった。三田屋の西宮北本社工場内の地ビール工場には、地方の法人や個人が次々と訪れ、百社を超えた。テレビ会社も二桁の番組を取材撮影して帰ったが、多くの番組はサリン事件のお陰で没してしまった。テレビ会社は地ビールどころではなくなったのだ。

この二つの大事件で吹き飛ばされてしまったのは地ビールだけでない。
この年の4月19日、円ドル相場は79円75銭という史上最高値を記録したのであった。
この秋日銀は公定歩合を0.5%に引き下げた。暮れには悪名高き住専処理があった。6850億円という巨額の公的資金が投入された。しかしあれもこれもサリンに毒され、忘れ去られてしまったのだ。ファーストフードの雄、マクドナルドが十一年続いた1個210円というハンバーガー価格をこの4月に一挙に80円も下げて130円にしたニュースなど誰ひとり記憶することもなかったろう。
しかしながら大事件に隠れて、デフレは徐々に進行していたのであった。そして次々に起こる大型倒産と金融不安、株安、土地安。
消費はこの年を境に急激に落ち込んで行く。揮八郎の三田屋も影響を受けぬ筈はない。

揮八郎は信念をもって動いた。これらのことは大変化であるが予想できたことでもあった。手は打ってあった。ハムは売れ過ぎた時期に、目の届く範囲の生産量に抑えてあった。レストランのメニューも幅をもたせて変えてあった。普段から現金仕入れを徹底してあった。だから売上金が下がることは何でもないことであった。
しかしながらその後も世の中は揮八郎の予想を超えて激しく変化して行く。「信念」「信念」「信念」――、揮八郎は珍しく腕組みをするのであった。
2002.8.5 Vol.56

○第四十三号 信念・信念・信念
「信念」という言葉を前にするとき、一番に思い浮かぶのが、D・カーネギーの「人を動かす」という著書である。もう古典だと言ってもよいこの本には、信念という言葉が、これでもか、これでもかとくり返し出てくる。
「信念は人を動かす。自分が信じないで、どうして他人が信じるか。自分が動かずしてどうして他人を動かすことができるのか。行動の伴わない信念は信念ではない。そんなものは単なる自惚れでしかない。自分が動き必死になって全力投球する姿が他人の心を揺さぶるからこそ他人は自分のために動いてくれる。」
「徹底した行動が信念、自身を生むのだ。」
「信念を持たない限り、人は強くも、正しくも生きていくことはできない。」
「信念、信念、信念、これこそ諸君の資本である。」

震災やオウム事件の起こった平成7年以降、時代は大きなうねりを見せて変化の様相を顕にしてきた。揮八郎の事業は日本の経済界からみればとるに足らぬほど微小なものであっても、政界や財界の高所の動きが、たちまちに影響してくるようになってきた。世界の政変や為替相場も無縁ではなくなった。多くの社会主義国家崩壊後の世界では、いつ、どこで何が起こるかわからない。アメリカにおける同時多発テロ事件も突如として起こったのだ。ITの発達は社会の一員としての個人の価値観をどこまで変化させるのであろうか。インターネット社会は確実に情報拡散を進めることになるだろう。既存の組織が保ってきた秩序の崩壊さえ心配になってきた。あらゆる政策にトレードオフ(あちらを立てれば、こちらが立たぬ)が深刻化してきた。街ではプレハブの店舗が乱立してきた。焼肉やラーメン店、回転ずし、そして携帯電話のショールームや〒にクロや百円ショップ。そして安売り合戦がはじまった。
こうした動きの中で、揮八郎の三田屋をとり巻く経営環境は著しく変化してきた。揮八郎は「信念」という言葉を、ことさらに意識するのだった。「変わらなければならない。」自問自答が続く。
司馬遼太郎の説を借りれば、信念を持って生きるということは、刃物の上を素足でわたることだ、その信念に体重をかけていきるということだ。そのためには、余分なものを削りすてなけれはならない。
揮八郎は「商業主義の考え方」をきっぱりと捨てた。
それはまさに揮八郎の周囲で起こっている経済活動とは全く逆行する決意であった。
そんな揮八郎のところに、突然大阪ドーム9Fへの出店要請が舞い込んでくる

○第四十四号 ドームのてっぺんに
平成8年3月1日。揮八郎は50歳の誕生日をむかえた。兄の償治(故人)とふたりで三田屋をつくったのは31歳の時だったから、数えて19年目ということなる。
そしてこの日は揮八郎初の大阪進出の日であった。大阪で初めての店はホテルの5F。ミナミの中心地、御堂筋、宗右衛門町の角に建つホリデイイン南海大阪の5階フロアーの一角、ステーキハウス「ホリデイイン南海5F三田屋」はここに誕生した。
翌年(平成9年)の3月1日、つまり揮八郎51歳の誕生日は、大阪ドームのオープン日に当った。揮八郎の三田屋はドームのてっぺん、そこは9F部分に当る。地上から50メートルの高層階に地ビール工場とステーキハウスとビアレストランの大型3施設が同時オープンした。
揮八郎にとっては何れのオープンについても冷静であった。
思えば平成になってからの経済環境は、めまぐるしく転変した。急角度に頂きに達したバブル景気は、雪崩を打って崩壊した。世間の一部にはバブルの余韻さめやらぬ者もいたが、街々は信用不安が渦巻いた。そんな折も折、平成7年の大震災である。関西の企業家にとっては、まさに泣きっ面に蜂、誰もが暗闇の中に追い込まれた。
二つの大阪出店の話が、大手企業を介して揮八郎に持ち込まれたのは、こん暗澹たる状況の中のことであった。
揮八郎は流れに順じてみようかと秘かに思った。事業を起こしてから19年、はじめて世間から信用されたのだ、と思った。思えばあの昭和の後期に端を発したバブル景気を不浄視した直感は間違いではなかった。何故こんなチャンスに店を拡張しないのか、土地や株に投資をして利益をえないのか、と攻め立てるように日参した銀行や証券マンを、逃げるようにして避けた直観は正しかったのだ。だから夢が現に帰った今、無傷でいられるし、冷静でもいられる。
それにしてもドームの担当者は、アリーナ(球場)も見えもしない、宇宙ステーションのような、クネクネ曲がった、50メートルもある高層階に、地ビール工場を造ってくれと言ってきた。しかもそのクネクネを100メートル使ってレストランをやってくれと。三回目にたずねてきた担当者は、今日決めてくれないとドームをオープンできないのだ、話を持ち込むところは、もうどこにもない、と必死の形相である。
揮八郎はこの時、地ビールプラントをカナダから取り寄せる日数を考えると、もうギリギリの日である事をわかっていた。流れに乗ることにした。
但しこの出店に限っては長持ちできないかもしれないと直観した揮八郎は、契約期間は5年と条件をつける。揮八郎は、契約相手の大阪市と民間からなる第三セクターの経営能力に疑問を持ったのではない。日本を取り巻く経済環境の先行きが余りにも流動的かつ不透明に感じたからであった。

○第四十五号 ドーム9階に公園をつくる
大阪ドームとの契約を5年と決めた揮八郎は元より勝算あってのあっての決意ではない。
どんな安上りの投資であっても、僅か5年で償却できるほど世間は甘くはない。ましてや三田屋はそのような企業を軽蔑してきた。三田屋はいつもこんなにおいしいものを、こんなに快い雰囲気で、こんな安い価格で、と顧客に喜ばれて二度三度と通ってもらえる店でなければならないのだ。
事業への投資は、必ず何年か先に応分の果実を得ることを目的としてなされる。当り前のことである。しかし揮八郎の三田屋が大阪ドーム出店に際して結んだ契約は、5年経ったら閉店することを前提としたものだ。通常のケースでは前代未聞と言ってもよい。
だが敢て揮八郎は出店を決めた。
かの有名な評論家小林秀雄の箴言が思い出される。「人は、その性格に合った事件にしか出会わない」というものだ。
これまで何度も書いてきたが、揮八郎は、現場主義の人、運命に従順な人、意志決定に当っては論理よりも直観を優先する人である。筆者は偶々大阪ドーム商業部のスタッフと揮八郎の最初のヤリトリの場に立ち会ったのだが、揮八郎はとことん誠意を尽くしてくる相手、芯から彼を頼ってきた相手にはノーとは言えないのである。奥深い所にひそむ彼の性格がOKサインを出したと言ってよいのかも知れない。
かくして揮八郎は始動した。
勝算はないが、幾莫かの成算は、胸の裡に描くことができた。動き始めると速いのはいつものことだ。もうこの時は5年先のことなどどこかに置いてきていた。
いよいよ彼の本領が地上50メートル、宇宙ステーションのようなクネクネの現場に発揮される番だ。揮八郎は仮説のエレベーターで最上階の9階に上った。「9」の字は、中国では「天」を意味するが、まさにそこは天辺であった。揮八郎の三田屋に与えられたスペースからは機械室に遮断されてアリーナ(球場)を見ることはできない。クネクネの外側に飛び出した窓からは遠くに南港あたりがのぞめるが、それも立ち上って背伸びしてはじめてみえる。15メートルほどもある天井や壁面には無数の太いパイプがはしっている。ここに地ビール工場をつくれというのか、蛇のようにひょろ長いおかしなこの空間を100メートルも使ってレストランをやれと言うのか。粉塵の舞う工事現場に腕組した揮八郎は、暫く目を閉じていたが、「公園とプールをつくる。プールは色つき音楽つきの噴水だ。お客さんは公園の中で三田屋の食事をする。」「よし決まった。すぐにドイツへ噴水を注文しろ、それからカナダへは醸造プラントだシンガポールには公園の苗木と庭職人の注文をしろ。」大声を張り上げるのだった。

○第四十六号 円高と揮八郎
急激な円高や、人為による政策円高が国内経済に及ぼした悪影響は、はかり知れない程大きい。14年間もの長い間呻吟し続けているバブル崩壊後の日本の経済の惨状は目に余るが、これもプラザ合意という17年前の人為による円高政策から起った。
しかし円高が悪いのではない。むしろ円高は日本が世界の列国に対して経済的に強くなった証明である。誇りに思ってよい。多くのメリットが生まれている。若い人には無縁だろうが、大卒の初任給で一本買うのがやっとだったジョニ黒と呼ばれたスコッチウィスキーが、5分の1の価格になった今だと、百本も買える。サラリーマンが着る背広だって、むかしは一ヶ月の給料で一着買えなかった。それが今だったら小遣い銭で3着も買える。
揮八郎がヨーロッパのインテリア家具の広告に目を止めたのは、かれこれ10年前のことだったろうか。彼自身がファインテイン・アートと名づけた、水が細い透明管の中を電動で上下する「衝立(ついた)て」が一台150万円で載っていた。店舗のインテリアとして欲しくて仕方がない揮八郎は広告主の輸入業者に注文しようと電話をとり上げたが、はたと止めた。「現物を見なければ。」揮八郎のいつものスタイルに戻った。その五日後にはミラノの郊外の工場にいた。衝立てのメーカーで自ら作動し物を確かめて価格を聞いた。そして驚いた。日本で売出された10分の1の一台15万円だと言う。この実話はジョニ黒や背広のように直接円高とは関係ないが、あながち無関係とも言えない。国内の輸入業者の一部には円高を利用して大儲けを企む例をしばしば見るからである。
ヴェネチアから電車で小一時間北上したところにトレビソという中世の名残りの小都市がある。世界的に有名となったベネトンの本社のある町で、日本の代表的建築家安藤忠雄も関わるところだが、揮八郎は僅か一台のジェラート(アイスクリーム)の機械を買うためにここを訪ねている。しかもここに4日間もいた。4日間でジェラート造りをすっかりマスターしたというから、これが揮八郎流なのだなと改めて感心させられた。このジェラート機械メーカーの社長は揮八郎が以前からつき合いのあるカナダのビール醸造プラントメーカーの社長の友人であったが、揮八郎のこの10年余りの海外人脈は急速に広まっていた。
アメリカ、カナダ、チェコ、オーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ニュージーランド、星港、マレーシア、台湾。そして大阪ドーム三田屋のインテリアはこれら諸国の物品と労働力とを総動員してつくられたのであった。
円高が揮八郎を動かしたのだ、と言ってよいのである。

○第四十七号 恐るべきはなれ技
いま、NHKの大河ドラマは吉川栄治原作宮本武蔵をもとに「武蔵」が放映されている。筆者は主演の市川新之助に久々の男をみた。女性の抬頭に長く呻吟してきた男の世界にもやっと光明を見出した思いである。吉川栄治は原作の「風の巻き」で武蔵をこう位置づけた。
「彼が信じて疑わずに通ってきた道は、なんでも実践だった。事実に当って知ることだった。―――――理論はそれから後、寝ながらでも考えられるとして来たのである。」
NHKが今なぜ武蔵なのかについてはいろいろな意見があるが、筆者はひとえに右の原作者の思いを現代人に訴えようとしたのではないかと思う。
男に元気がない。激しく変化する世の中について行く勇気がない。責任感もない。困惑の果てには自害までしてしまう。何と情けない男世界になり果ててしまったことか、と。
だが、新之助武蔵に光明を見た。
この1~3月に決算期をむかえる大企業1300社の中に200社もの会社が史上最高利益を上げるそうだということも聞いた。
日本企業にも日本人にもまだまだ希望はある。
さて、三田屋の社長廣岡揮八郎は吉川栄治が描きたかった武蔵そのもののように思う。少なくともここに引用した武蔵の評価に限ってはズバリそのままである。
先ず実践である。揮八郎はグズグズするのを最も嫌う。とりあえず動くのである。感性で動くのである。動きさえすれば必ず何かが生れてくることを確信しているのだ。
大阪ドームのインテリア構想の梗概は彼の頭の中で、僅かに30秒ででき上がったという。とりあえずは、カナダから地ビール醸造プラントを運ぶコンテナ船を予約することだ。ドイツの噴水装置も同じことだ。組立て技師の来日日程も決めろ。シンガポールには巧妙なインテリア植木大、中、小を鉢や庭石や網と一緒に積込ませろ。ついでにイスとテーブルも造ってもらえ。カナダとドイツとシンガポールから来る職人のホテルをすぐ予約しておけ。彼の矢継ぎ早の注文は一瞬のうちに終わった。何を、どこに、どう置きどう装うかは、彼にとってはそれからの楽しみとなる。というのも彼にとって、建築やインテリア設計は第二の事業みたいなものでここ20年来、やらない年はなかった。今日では大きな丸太柱をあしらった建築スタイルは「揮八郎モデル」という独自なものに完成しつつある。だが大阪ドームの店舗はこれまでのものとは全く異質の条件で施工されなければならなかった。なにしろドームてっぺんの9階、くねくねホールを百メートル長も、使うのである。揮八郎は一瞬判断した。容易に原型に戻せる施工方法だ。原型に戻す、それは5年後現実となった。満5年を経て契約完了の確認をすませた翌日には、たったその日一日だけでこの大店舗を何ひとつ残さずとり去ってしまったのである。おそるべきはなれ技と言わざるを得なかった。平成13年3月1日のことであった。

○第四十八号 いまは「大工」
世界の政情が混沌としてきた。こうして物語を綴り続けている間も日本の株は20年ぶりの7800円台という安値に落ち込んでしまった。バブル時のピーク(平成元年12月29日)が38915円だったから、5分の1にまでなり下がったという散々たる状況にある。乱発してきた国債も500兆円を超え、国と地方の抱える借金も700兆円という膨大なものとなってしまった。アメリカ経済も確実に下り坂にある。3年前(2000年1月14日)1172ドルだった株が97年の水準7500ドル台まで下ってきた。ドイツ経済もバブル崩壊後の日本と同じような状況を呈して大銀行が危ぶまれ出した。失業者は460万人で11.1パーセントの失業率となっている。
こうした先進国の不調を尻目に中国だけが年率7パーセント以上の経済成長を遂げて一人勝ちの様相である。世界経済は、さま変りするかもしれないという予感すらしてきた。
イラク攻撃が明日にも始まるかも知れないという不穏な空気の中で、揮八郎社長はどうしてるだろうか。久々に三田屋の彼を訪ねてみた。
「BSEや雪印や日ハムなどの不祥事事件以来心配していたが、その後どう?」
「お客さんは一時期減りましたが、すぐ戻ってきてくれました。でも売上げは戻りません。デフレの影響でしょう。売上げが少し減るくらいは何ともありません。この際もう少し減らそうと思っています。お客さんに評判のよくない店(フランチャイズ2店舗)を6月に閉めます。」
「7時半に会社に出勤するんだって?」
「近頃はもうちょっと早く出ています。何しろ忙しいんですよ。ハム工場のクリーン化を完璧にしてるんです。それに独立店にバリアフリーのスロープづくり、独身寮づくり。ハム工場は専門家にたのみますが、あとはぜんぶ自分達の手で。植木や花の世話まで毎日でかけています。」
「独身寮も自分でつくったの?」
「ぜんぶやりました。業者にたのんだのは水道の配管くらいかな。各室バス、トイレ就きの結構なもんですよ。ここ数ヶ月は土木と大工と植木屋(笑)」
「先日電話したら出張で3~4日留守だと事務員さんが言ってたけど、どこへ行ってたの?」
「島原と天草、帰りに山口の長門と福山」
「えっ、社長はクリスチャン?」
「違います。島原も天草も長門もサービスの勉強です。一流の旅館がどんな接客をするのか、設備も料理も。それにしても旅は精神の若返りの泉だ、真の知識の大きな泉だ、と言われますが、ホントに実感ですね。島原から天草に渡すフェリーの中で、あの普賢岳が大爆発した時、市長だった鐘ヶ江菅一さんに出会い、偶々天草の宿が同じだったのでその晩一緒に食事したんですよ。お蔭で鐘ヶ江さんから数え切れないくらい貴重なお話をうかがった。何だか分らないけど、一ぺんに若返りましたよ。」

○第四十九号 「桜守」揮八郎
桜と戦争。似ても似つかぬこの美醜の両極が、われわれの住むこの地球上に厳然と存在する事実に、茫然としてしまうばかりか、愛とか祈りとかの言葉さえ空しく聞こえてくる。平和が好きか、と問えば誰もが好きだと答えるのに、なぜわれわれ人間の歴史は、六千年も七千年も長い間、戦いの歴史でしかなかったのか。平和が好きと答える筆者自身に対しても、本当にそうなのかと疑いたくなるほどだ。
人間は「食」と「性」と「闘」という三つの本能を持つと言われる。それは自然界の他の動植物たちも同じことだろう。
ふと「どろ亀さん」のことを思い出した。北海道の富良野の東大演習林で長い間、森の観察と森林保護に一生をかけてきた高梁延清さんのこと。彼の詩にこんなのがあった。

森の世界
森には何一つ無駄がない 植物も動物も微生物も
みんな連なっている 一生懸命生きている
一種の生きものが 森を支配することのないように
神の定めた調和の世界だ
森には美もあり愛もある はげしい闘いもある
だが ウソがない

われわれ人間の世界にはウソがあるかも知れない。そのウソにわれわれが気づいていないのかも知れない。
話はすっかり三田屋物語から外れてしまったが、どろ亀さんの詩の一行一行が気になってしかたなかったので書いてしまった。
さて、三月期決算が出揃うこの季節、聞こえてくるのは、本業で数百億円の利益を上げながら決算は赤字、持株の評価損が本業の利益を上回ったのだ、というおそろしい話ばかり。思わず「ウソ」だと叫びたくなる。決算がウソと言うのではない。本業以外のことがウソだと言いたいのだ。資本主義がねじ曲ってきた。病に冒されてきたようだ。マックス・ウェーバーは、「資本主義は、禁欲的でないと堕落する」と言ったが、もう堕落してしまったのかも知れない。人間の持つ三つの本能だって乱れ切ってバランスを失っているために戦争も起る。
つい先日の早朝、三田屋のマネージャーから電話が入って、時間があれば金仙寺の店にサーカスを観に来ませんか、とのお誘いだった。何ごとかとかけつけて見れば道路側に大型のクレーン車が横づけになっている。クレーンの先端にはドラム缶がぶら下がっていて上空にゆらゆら揺れている。よく見ればそのドラム缶の中に人がいる。揮八郎社長だ。「今日は桜守なんですよ」と見を乗り出して大声で私に話しかけてくる。一瞬、バランスを崩した彼はドラム缶からこぼれ落ちそうになって慌てたが、ほほえましい朝であった。ここにはウソのない平和があった。自然と人間の調和もあった。

○第五十号 老朋友
人と人との出会いほど不思議なことはない。「人はその性格に合った事件にしか出会わない」と小林秀雄(故人・評論家)は言うが、人と人との出会いはその人の性格を超えた何物かによって操られていると思わないわけにはいかない。その不思議を「縁」といい、縁は「必然」なのだとむつかしく語る先哲もいるが愚鈍な筆者には縁は「偶然」としか思えない。
兵庫県氷上郡氷上町に生れ、三田市で育った揮八郎が、沖縄出身の瑞慶山祐吉に出会ったのは、今から38年前の昭和40年のことであった。名古屋商科大学のキャンパスには数多くの旧友もいただろうに、なぜかこの二人に不思議な「縁」が生まれる。性格は、全くといってよい程異質であるが、世間の多くの取り合わせをみても同例が多いから不思議ではない。むしろ異質のものに引かれ合う、ということが「縁」を長もちさせる。
大学が休みに入るたびに揮八郎と祐吉は三田に帰った。当時の揮八郎の実家が丸優食品という食肉加工工業を営んでいたことはすでに物語のはじめの稿で述べたが、二人はその丸優食品でバイトである。勝手知った揮八郎は十人前の仕事をこなすが、祐吉は見よう見真似でそれでもコツコツと一日中よく働いた。当時丸優食品では近郊の牧場で400頭の肉牛を肥育管理していた。ここも二人の仕事場だった。牧場の緩んだ土壌に足を踏み入れた祐吉が胸の高さまで沈みこんでしまった日、揮八郎が幾重にも束んだ綱で必死に引き上げたことなど荒々しい青年時代の思い出だ。学校を終えた祐吉は郷里の沖縄に帰って行った。のちに祐吉は福岡県の飯塚市で病院勤めをする。沖縄が返還された昭和47年5月以降、揮八郎はしばしば祐吉を訪ねている。だが飯塚の病院時代の祐吉とは交流が途絶えた。再び祐吉が揮八郎と出会ったのは揮八郎が三田屋を興して店舗拡張期に入った昭和60年頃である。祐吉は3年間三田屋のステーキハウスで一日も休まず働いた。女房を飯塚に置いたままの単身赴任だった。祐吉はこの3年間で接客と調理と経営を覚える。何よりの収穫は揮八郎のやり方だった。昭和63年、飯塚市街地の外れのアパートの1Fに僅か13坪のステーキハウス三田屋飯塚店をフランチャイズ店として開店させた。そして11年を過ぎた平成10年秋、祐吉は待望の一戸建てレストランを建てて引越す。建設現場に来てあれこれ揮八郎に対し、祐吉は珍しく多弁であった、「今日、こうなれたのはみんな揮八郎さんのお蔭や。金もない、お客に上手も云えない自分が、ただ信じてコツコツやってきたのは、揮八郎流経営をやり貫くことだった。お蔭で土地の人に信用してもらえた。開業の前に信用金庫の人に揮八郎流を必死で喋った、それで金も借りることができた。息子も揮八郎さんの下で働かせてもらった。揮八郎流は九州でこれからもずっと生き続けるよ」

○第五十一号 たゆまざる歩みおそろし
「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」という俳句は大正、昭和の大彫刻家、北村西望さん(1884~1987、58年分化勲章)の句である。高さ9メートルという大彫像を彫り上げた彼は、その「平和記念像」が長崎平和公園に設置されたその除幕の日、一匹の「かたつむり」を像の中に見る。やがて、かたつむりは何時間もかけて像の天辺にのぼりつめたのだが、それをじっと見続けた彫刻家は、わが作品を忘れて、句を詠んだと言う。昭和30年8月8日のこと、彫刻家72歳のときだった。彼は104歳の天寿を全うした。長寿が多いと言われる芸術家(とくに彫刻、日本画家)の中でも突出した存在であった。
この大彫刻家が詠んだ句の重さは、104年もの人生の大事業を成し遂げた人によるものだけあって私達の胸にズシリとくる。彫刻家からみれば発展途上人に過ぎない揮八郎の胸にも重く響いた。
この実感溢れる俳句は、彫刻家の手によって何枚か揮毫(きごう)されたであろう。そのうちの一枚が立派な額におさまって今、揮八郎のもとにある。元島原市長の鐘ヶ江菅一さんより贈られたものである。みごとな「書」である。墨いろといい書体といい、文字の配置といい、余白といい、非のうちどころのない芸術品である。こんな立派なものを、なぜ鐘ヶ江さんは揮八郎に譲ってくれたのだろうか。揮八郎は悩む。あの普賢岳が大爆発を起し、大火砕流によって43人もの尊い生命を奪ったその当時の島原市長が、たった一日旅の途中に出会っただけの揮八郎に、こんな宝物を譲ってくれるなんて。揮八郎は夢の中にいるようだった。それも二度。鐘ヶ江元市長に出会った日の感激、そして大事な大事な宝物が届けられた日のこと。
揮八郎は芸術作品の書額に見惚れながら、平和記念像を脳裡に思い浮かべた。そして句を再読する。揮八郎にも「かたつむり」の姿が現れた。揮八郎の網膜の裡に写ったかたつむりは、ただ黙々と上を向いて歩むばかりだった。いつ天辺に辿りつこうとするのか、そこに何があるのか、そんなことは考えなかった。「歩む」ということ、「歩み続ける」ということただそれだけを考えた。
将棋の世界には、「方尺の盤上に天地あり」という諺がある。その世界の「歩」には前に一歩しか進むことのできない一番小さな駒である。しかし辿りついた相手の陣地の中では「ト金」となって王将をさえ窮地に追い込む力を持つ。いつだったか升田名人からそんな話の「歩の経営」という講演を聴いた。天中間に会って広く天井天下を俯瞰したのかも知れない。「物語りの主人公はいつも<歳月>だと」とは久世光彦さんの名言だったが、「歩み」はその天地に、確実に「時」を呼び込む力を潜ませる。揮八郎はこの西域のふたりの偉大なる人に何をもって報いよう。
たゆまざる歩みでしかない。

最後に・・・
これで廣岡揮八郎のエッセイは終わりとなります。
ご愛読いただき、ありがとうございました。

現在、廣岡揮八郎の三田屋直営店は6店舗
ハム・ドレッシング・カレー・コロッケ等は
レストランや百貨店で販売され、大好評をいただいております。

これからもずっとハム造り、ステーキハウスに情熱を注ぎ続け
廣岡揮八郎の活躍の場はますます広がり続けます。

地ビール三田屋ストーリー

「地ビール」を造ろうという動機はビール好きの廣岡兄弟(四男故償治と五男揮八郎)が三田屋というステーキ店を開業した瞬間に生れている。揮八郎の兄償治は昭和62年三田市のニュータウンに能舞台付きのレストラン三田屋本店・やすらぎの郷をオープンさせて間もなくガンのために43才という若さで逝ってしまったのですが・・・・・・このふたりが他の兄弟や両親の反対を押し切ってステーキ店を開業したのはその11年前の昭和52年の夏であった。その前年ハムの製造技術を学ぶためにドイツに滞在した兄償治は何より好物だったビールを本場で浴びるほど飲んだようです。本場には流石に多くのビールがあって、それまで日本で飲んできたビールとは香りもコクも味も随分違っていて帰国してからも舌が覚えた味を懐かしそうに思い出していたようです。二人が開店にこぎつけた三田屋にはガラス張りの窓を通して見えるハムのスモークハウスがすえられて、ハムを造っていました。ハムのオードブルとステーキという組み合わせを揮八郎が考え、ドレッシングも造りました。玉葱を薄くスライスしてドレッシングをかけてそれをハムで包むようにして食べる方法も彼が編み出したものです。「ハムとステーキ、それにとびっ切りうまいビール、おい、ビールも造ろうやないか。」日に大瓶12本は飲んだと言うビール好きの二人の発想は、もちろん店のお客に喜んでもらおうと思ったに違いはないのでしょうが、何だか自分達の食欲を満たそうとして生まれたようにも思えてなりませ。「三田にはなぁ、むかし川本幸民という偉い人がいよった、日本で最初にビールをこさえた人やいうてわし達が通った小学校の校門に石碑があったん覚えているやろう、あれやあれや、わしら二人でそいつを再現させるんや。」償治がこんなことも言ったようだ。揮八郎はすぐに調査にかかった。ビールを造るためには免許がいる。「あかんわ、法律があって一年の2千キロリットル造らんと許可が下りんそうや、何十億の金がないとできんこっちゃ。」

二人の夢は消えたのでした。そしてその11年後兄の償治も逝ってしまったのでした。

 ニュージーランドで再び蘇った「夢」

 揮八郎がはじめてニュージーランドに行ったのは平成2年のことでした。「緑尋桟妙」という禅語がありますが、人と人の出会いというものは全く不思議なものです。揮八郎はその年ひとりの青年と出会っています。彼の名はマツザキヤスシ。ニュージーランドに永住権をもつ日本の青年でした。揮八郎の目的はワインの買付けでした。揮八郎が彼の斡旋でワインを農場の一区画分買ったことから二人の縁ははじまったのです。この年揮八郎は二度オークランド入りしています。揮八郎のビール造りの夢が蘇ったのはその二度目の時のことでした。

 松崎の知り合いのブルーパブでその店の「地ビール」を飲んだ時でした。揮八郎はこの時までに何度かヨーロッパに行っておりましたのでドイツやベルギーなどのビールの味を知っていたのですが、そのブルーパブの地ビールには思わず歓声を上げたほどでした。「うまかった。こんなにうまいビールがあるのか。」と、揮八郎はやみつきとなって滞在中ワインの事を忘れて店に通ったものでした。タンクの造り立てのビールがサーバーから注がれて見事な泡の花がグラスを満たす、待ちきれない面持ちで何杯も何杯も飲んだそうです。このブルーパブのオーナーが話のわかる人物だったのは揮八郎にとって幸いでした。揮八郎は松崎を通して「ビール造りを教えて欲しい。」と頼み込んだのでした。そして翌日から五日間工場に入っています。それ以来平成5年まで9回渡航した揮八郎は延べて40日間通訳を買って出た松崎と共にビール造りを習ったのです。平成5年の12月、細川内閣は規制緩和策条件の大幅緩和を発表しました。揮八郎は「夢」かと思いました。すぐにヨーロッパへ向けて出発です。六ヶ国を松崎の通訳で回ってウィーンでは醸造プラントを買い求めました。そしてわが国の外食産業として最初の製造免許を取得したのでした。平成7年、阪神大震災の災禍もモノともせず醸造がはじまったのです。揮八郎は最初のタンクから二つのグラスに地ビールを注ぎ入れました。ビールの出来具合としてはまだ不満足ではありましたが、二つのグラスを前に置いて静かに目をつむるのでした。「償治兄ィ、ヤッタゾ。」と心の中で叫んだのです。

 話は少し横道に外れますが、揮八郎は兄償治の三田屋本店にもこの地ビールを持って行って共有したかったのですが、償治が故人となって以来9年間経過した当時、揮八郎の経営する三田屋と償治亡きあとの三田屋本店の経営方針があまりに遊離しすぎていたために思い止まらざるを得なかったようです。

○故廣岡償治兄と共有した「夢」、消える
笑い話として聞き流して欲しいのですが、あるお客さんからこんな葉書が来たんですよ、とスタッフから聞いた。

 「三田屋のレストランで揮八郎ビールを頼んだのだが、極冷のビール好きの私にはややぬるめに感じたので氷を持ってきて貰った。ところがついつい氷を入れすぎてしまい、しまったと思って飲んだら、何といつも家で飲んでいるラガーではございませんか。ついでに遊び心で氷水まで足して試してみたら何と何とスーパードライに化けちゃった。どうこの話面白いでしょう。」

 醸造の方法は酵母を上に浮かせて醗酵させる上面発酵の手法と、低温で醗酵させ酵母を下におろす下面発酵との二つの方法がある。日本の四大メーカーがやってきたのは後者の下面発酵ビールです。揮八郎は免許を取って醸造を始めるに際して強い意思を示した。「三田屋ではメーカーと同じ方法でビールを造る。そしてお客さんに比べてもらう。絶対にメーカーよりも旨いビールを造ってやる。ハムもメーカーでは真似のできない事をやって味を出してきた。ビールだって絶対に出来る。」とかなりきつい決意でした。揮八郎が咄嗟に思いついたのはボルドーの重厚なボディを持った赤ワインでした。どうすればメーカーとは違ったフルボディのビールができるか。先ずピルスナーに集中した。

 こんな時、揮八郎のひらめきは速くて鋭い。原料を倍ほど持ち掛かる。麦芽もホップもだ。濃厚で荒っぽい糖液ができるだろうから、倍ほどの時間をかけてやって角をとるんだ。それが熟成だ。ハムも時間さえかけてやればどんどん旨味がでてくるんだ。僅かに15日間で商品化できる多くの地ビール業者のやる上面発酵の3倍の時間をかけるように指示をした。30日目、未熟だ。まだまだ。45日目。角がとれた。青くさかった風味が消えた。ホップの渋味もまろやかさがでてきた。略々イメージ通りのボディの厚いビールが生れてきた。そして何よりのご褒美はビールがビール自身になりきるために自らが造り出す純粋無垢の「炭酸ガス」が生じた事であった。炭酸ガスの良し悪しは泡を見ればすぐ分る。グラスに注いだ時肌理細かくねばっこく、軽い綿のように盛り上がる綿ならばそれは良質の炭酸ガス、換言すればよいビールが出来たことの証明である。多くのビールは製造課程で「貰い炭酸ガス」を行う。カーボネーションと称しているが、ガスボンベから貰うのだからビール自身が造り出すものとは天と地との差がある。とかく物造りと言うものは算盤ぬきでは考えられないので、よくよく調べてみるとビールに限らずこんなことは日常茶飯事として行われている。しかし揮八郎はこんな、いわばごまかしは承知できない。結論、ビールが出来ればよいのとは違う、旨いビールが造れなければそれは造ったことにはならない。というのが持論だった。

 はたから経営バカと云われているのもその辺りのことからだろうが。メーカーはピルスナー醸造において揮八郎方式を採用することは先ず難しかろう。倍の原料代をかけることも三倍の時間をかけることも彼らにとっては命取りに等しいことだから。では何故零細企業の三田屋がそれをする事が出来るのか。それは問屋も小売店も通すことなく自らの直営店で料理の一部として販売できるからだ。だから揮八郎は瓶詰めをする事をやめた。方々から分けてくれるように依頼を受けたが全て断った。理由の大きなものとして採算のこともあったが地ビールの場合もっともデリケートな問題があった。そのことについては後の章で延べたいと思います。

 さて、次に揮八郎は、メーカには絶対に出来ないことを二つやった。一つは「フェストタイプ」のビールを造った事だ。これは始めて醸造機を輸入したウィーンのお祭りに出される中濃色の焙煎ビールであった。持ち掛りの麦芽の何%ほどを焙煎するのか迄は企業秘密だから聞き出せないが、それは大して問題ではない。メーカーが絶対にマネできないのはその麦芽を焙煎する方法なのだ。驚くべきことに揮八郎はフライパンを持ち出してきた。「フライパンでやると時間が掛かってしかたないのと手首が痛くなるのでロータリー式の焙煎機を買ってやる事にしたんだが、出来上ったビールがまるで違うんだ。だからフライパンに又戻した。」という揮八郎は、どうして出来上りの味が違うのかを細かく説明してくれた。詳しく書くスペースがないのでここでは簡単に例を引くに止めるが、それはパン粉を引くのに石臼を使うと美味しいパンが出来上るのと同じことらしい。
メーカーに絶対できない二つ目のスペシャルビールは「スモークビール」であった。揮八郎は何事も自分の手でやってきたのでハムを燻煙する装置はこれ迄、いくつも手造りしてきた。今手元に使っているのはかなり年季の入った手作業用のものだが、特別のハムを焼く時にだけ使っている。揮八郎はそのスモークハウスに麦芽専用の目の細かい網をつくってのせ、ハムを燻す方法で麦芽に桜チップの香りをつけてやったのである。おそらくこれは世界でただひとつのビールであろう。4年前地ビール先発16社のうち12社が集って催した第1回東京地ビール祭ではジャーナリストもビール専門家も揮八郎の周りに輪をつくった程このスモークビールは一瞬のうちに評判となってしまった。その祭で飲んだ作家のI氏は、二年後わざわざ東京から西宮の本社工場に、このスモークビールに、会いにやって来たのであった。

○メーカーが造れないビールをつくる
笑い話として聞き流して欲しいのですが、あるお客さんからこんな葉書が来たんですよ、とスタッフから聞いた。

 「三田屋のレストランで揮八郎ビールを頼んだのだが、極冷のビール好きの私にはややぬるめに感じたので氷を持ってきて貰った。ところがついつい氷を入れすぎてしまい、しまったと思って飲んだら、何といつも家で飲んでいるラガーではございませんか。ついでに遊び心で氷水まで足して試してみたら何と何とスーパードライに化けちゃった。どうこの話面白いでしょう。」

 醸造の方法は酵母を上に浮かせて醗酵させる上面発酵の手法と、低温で醗酵させ酵母を下におろす下面発酵との二つの方法がある。日本の四大メーカーがやってきたのは後者の下面発酵ビールです。揮八郎は免許を取って醸造を始めるに際して強い意思を示した。「三田屋ではメーカーと同じ方法でビールを造る。そしてお客さんに比べてもらう。絶対にメーカーよりも旨いビールを造ってやる。ハムもメーカーでは真似のできない事をやって味を出してきた。ビールだって絶対に出来る。」とかなりきつい決意でした。揮八郎が咄嗟に思いついたのはボルドーの重厚なボディを持った赤ワインでした。どうすればメーカーとは違ったフルボディのビールができるか。先ずピルスナーに集中した。

 こんな時、揮八郎のひらめきは速くて鋭い。原料を倍ほど持ち掛かる。麦芽もホップもだ。濃厚で荒っぽい糖液ができるだろうから、倍ほどの時間をかけてやって角をとるんだ。それが熟成だ。ハムも時間さえかけてやればどんどん旨味がでてくるんだ。僅かに15日間で商品化できる多くの地ビール業者のやる上面発酵の3倍の時間をかけるように指示をした。30日目、未熟だ。まだまだ。45日目。角がとれた。青くさかった風味が消えた。ホップの渋味もまろやかさがでてきた。略々イメージ通りのボディの厚いビールが生れてきた。そして何よりのご褒美はビールがビール自身になりきるために自らが造り出す純粋無垢の「炭酸ガス」が生じた事であった。炭酸ガスの良し悪しは泡を見ればすぐ分る。グラスに注いだ時肌理細かくねばっこく、軽い綿のように盛り上がる綿ならばそれは良質の炭酸ガス、換言すればよいビールが出来たことの証明である。多くのビールは製造課程で「貰い炭酸ガス」を行う。カーボネーションと称しているが、ガスボンベから貰うのだからビール自身が造り出すものとは天と地との差がある。とかく物造りと言うものは算盤ぬきでは考えられないので、よくよく調べてみるとビールに限らずこんなことは日常茶飯事として行われている。しかし揮八郎はこんな、いわばごまかしは承知できない。結論、ビールが出来ればよいのとは違う、旨いビールが造れなければそれは造ったことにはならない。というのが持論だった。

 はたから経営バカと云われているのもその辺りのことからだろうが。メーカーはピルスナー醸造において揮八郎方式を採用することは先ず難しかろう。倍の原料代をかけることも三倍の時間をかけることも彼らにとっては命取りに等しいことだから。では何故零細企業の三田屋がそれをする事が出来るのか。それは問屋も小売店も通すことなく自らの直営店で料理の一部として販売できるからだ。だから揮八郎は瓶詰めをする事をやめた。方々から分けてくれるように依頼を受けたが全て断った。理由の大きなものとして採算のこともあったが地ビールの場合もっともデリケートな問題があった。そのことについては後の章で延べたいと思います。

 さて、次に揮八郎は、メーカには絶対に出来ないことを二つやった。一つは「フェストタイプ」のビールを造った事だ。これは始めて醸造機を輸入したウィーンのお祭りに出される中濃色の焙煎ビールであった。持ち掛りの麦芽の何%ほどを焙煎するのか迄は企業秘密だから聞き出せないが、それは大して問題ではない。メーカーが絶対にマネできないのはその麦芽を焙煎する方法なのだ。驚くべきことに揮八郎はフライパンを持ち出してきた。「フライパンでやると時間が掛かってしかたないのと手首が痛くなるのでロータリー式の焙煎機を買ってやる事にしたんだが、出来上ったビールがまるで違うんだ。だからフライパンに又戻した。」という揮八郎は、どうして出来上りの味が違うのかを細かく説明してくれた。詳しく書くスペースがないのでここでは簡単に例を引くに止めるが、それはパン粉を引くのに石臼を使うと美味しいパンが出来上るのと同じことらしい。
メーカーに絶対できない二つ目のスペシャルビールは「スモークビール」であった。揮八郎は何事も自分の手でやってきたのでハムを燻煙する装置はこれ迄、いくつも手造りしてきた。今手元に使っているのはかなり年季の入った手作業用のものだが、特別のハムを焼く時にだけ使っている。揮八郎はそのスモークハウスに麦芽専用の目の細かい網をつくってのせ、ハムを燻す方法で麦芽に桜チップの香りをつけてやったのである。おそらくこれは世界でただひとつのビールであろう。4年前地ビール先発16社のうち12社が集って催した第1回東京地ビール祭ではジャーナリストもビール専門家も揮八郎の周りに輪をつくった程このスモークビールは一瞬のうちに評判となってしまった。その祭で飲んだ作家のI氏は、二年後わざわざ東京から西宮の本社工場に、このスモークビールに、会いにやって来たのであった。

○可愛い子には旅をさせない
地ビールに限らず飲料のすべては、製造所から遠く離れれば離れるほど味は低下する。輸送中に少なからず揺れるだろうし、場合によっては炎天下にも晒されることになろう。ワインもそうなのだが、とりわけ酵母入りの地ビールは気温の変化や湿度の変化を嫌い、遮光を施してやらなければならない。だからメーカービールは遠く旅させても或は少々荒っぽい保管をされても保存できるように熱処理をしたり完全ろ過されたりしている。

 後述するようにメーカーは人間の身体の健康によい酵母をわざわざとり除いてそれを使って製剤をつくったりしている。エビオスやビオフェルミンという薬はビール酵母から作られたものだ。揮八郎は人間の身体によいこの酵母は絶対に残すべきでそれが自然なのだ。そのためには旅をさせてはならない。ましてや瓶みたいな小さい世界に閉じ込めるなんてとんでもない。という持論から瓶詰めも外販も止めた。可愛い子には旅をさせてはいけないのである。だから近隣とは云え、各支店のステーキハウスへの輸送には極めて神経を使う。店には二日前には着けよ。そして冷蔵庫の温度を確かめて二日間静かに寝かせたあとしかサーバーにつないではならない。と全店に徹底させた。

 もうひとつ大切なことは、ビール造りは清掃が第一である。一度バクテリアに犯された工場は立ち直りが出来ない程、壊滅的被害を蒙る。三田屋では週2回の仕込みが原則なのだが他の4日は掃除の日なのだ。サービスする店側の清潔も言うまでもない。サーバーとその周辺は営業が終れば徹底的に機器の部品を洗濯しなければならない。グラスもそうだ。グラスに油分が残留しているだけでビールは泡を立てなくなる。折角うまく造ったビールもサービスする店側の姿勢で苦味のあるビールを提供することになる。そんなことを考えていると、とても外販なんかできはしない。揮八郎はそう思ったであろう。

 さて、前述のビール酵母の効用であるが、ビール酵母にはビタミンB群、ミネラル、アミノ酸といった栄養素がたっぷりと含まれている。だから栄養補給剤としてとくに食欲不振や消化不良、虚弱体質の人に効用がある。

 さらにホップの効用についても書いておこう。ホップはつよい静菌作用を持つのでビールの腐敗を抑える役割をもつが、人の身体にも神経鎮静効果や糖尿病・高血圧・腎炎・便秘・神経痛・喘息・胃腸病などに効能がある。女性ホルモンも多量に含まれている。ビールの歴史は五千年とも六千年とも言われているが、肯ける面がここにもある。

○ビールの味の決め手「泡」と「炭酸ガス」
「ワインで酔った人は前に倒れるが、ビールで酔った人は後ろに倒れる。」と観察したのは紀元前ギリシアの哲学者アリストテレスとの事です。ワインもビールも古代から愛飲され続けたすばらしい飲み物なのですね。世界にはワインを造らないベルギーのようにビールに凝る国では色んな味のビールが造られて飲まれていますが、世界のビールの主流は何と言っても「ピルスナー」でしょう。日本の五大メーカーもアメリカのバドワイざーやクワーズ等の大メーカーも又今日では本場ドイツですらこの美しい淡い琥珀色の下面発酵ビール「ピルスナー」を90%以上つくります。消費者もすっかりと、この「のど越し味」のビールに慣らされてきたと言ってよいでしょう。このピルスナーは今からおおよそ60年前チェコのボヘミア地方ピルゼン市のピルゼン醸造所で偶然に出来上がりましたのでこう呼ばれるようになりました。当時本場ドイツで造られるビールは硬水のためほとんどが黒に近い濃色だったようです。さて、美味しいビールとはどんなビールなのでしょうか。私は色、香り、泡の状態、のど越しの味と舌で感じる味、あと口、で採点をしておりますが、最も重要視するのは「泡の状態」です。うまく造られたビールは泡を通して芳醇な香りがするものですが、泡は実に肌理細かく出来上がっております。しかも粘着性があります。肌理細かく粘着性のある泡はサイダーやシャンパンの泡のように早く消え去りません。何故泡が大切なのかには理由があります。グラスに注がれたビール(それは炭酸ガスとアルコールなのですが)泡はそれらにフタをして外に逃しません。その分散化も押さえますから出来たてのビールそのものの味を保護するのです。泡はドイツでは「ブルーメ=花の精」と呼んでいます。ドイツでも泡の良し悪しがビールの内容の豊富さとバランスの良し悪しを物語る、と言っております。次に泡と共に大切なのはビールの分身とも言うべき炭酸ガスが良質でなくてはならないことです。私の知る限り多くのメーカーや地ビール業者は採算上からかどうかは知りませんが、カーボネーションという作業をします。これはボンベからタンクに炭酸ガスを注入してやる作業です。ビールは麦芽を煮て、糖質をつくり、酵母を加えて発酵させた結果、アルコールと炭酸ガスが生まれます。それがビールなのです。従ってその炭酸ガスはビールそのものであるべき筈のものなのです。ところがカーボネーションは炭酸ガスをボンベから貰うのですから、当然麦芽から造られた炭酸ガスではないのです。この異質の炭酸ガス混入のビールの泡はシャンパンの泡のようにすぐ消えます。良質の炭酸ガスとビールの純粋な製法からしか生まれないのです。私は泡の出来具合や香りなどから炭酸ガスが本物かニセ物混入かを見極めるようにしています。それがビールの味を判断するのに決め手となると確信するからです。最後に理想的な泡の姿をまとめてみましょう。「コップ八分泡二分に注いだ時、肌理の細かい泡立てたクリームのような泡がコップの縁から綿帽子のように盛り上り、ビールを飲み乾すまで消え去らず、一口飲むごとに、飲んだ量を示す泡の輪が、コップの壁にはっきりと残る泡。」それがビールの理想の泡です。

○なぜ、メーカーは酵母入りビールを造らない
「ビール酵母」が私たちの健康に優れた効能を持つことは、ビールメーカー自身が「ビオヘルミン」「エビオス」といったビール酵母を主原料にした医薬品を造ることでもよく分かります。それら医薬品や粉末や錠剤で売られている「ビール酵母」は醸造工程でとり出したビール酵母を再び麦汁の中で増殖し、乾燥させて作るのですが、なぜメーカーはそんな面倒なことをしなければならないのでしょうか?手前ミソになるかも知れませんが、三田屋ではビール酵母の入ったまま。そうです、どこかのCMではありませんが、「何も足さない、何も引かない」純粋地ビールをお客様に飲んでいただいています。 さて、メーカーがこの健康によい酵母をわざわざ取り除かなければならない最大の理由は、「保存」の問題です。ビール酵母は生きていますので保存状態によってはすぐに腐敗します。メーカーは大量生産します。そして日本中どこへでも販売します。卸商や小売店で一体どんな保管をされるでしょう。直射日光にもさらされて放置されているかも知れません。そしてそれらはいつ消費者の手に渡ることでしょう。旅館やホテルの冷蔵庫で眠ったままのものも回転の悪い自動販売機に鎮座しているものもありましょう。そんなことを考えると、腐敗しやすい酵母入りビールを販売する事はできないのです。 私はモノ造りをはじめるに当たってメーカーではやりたくてもできない問題点を探し出すことにしています。地ビールの場合はすぐにそれを発売することができました。ですから私は地ビールを小さな世界に閉じ込める「ビン詰め」をしないこと、と共に地ビールに旅をさせないことのふたつを決めて、私たちの健康にすばらしい効能をもつその酵母をやさしく温存した地ビールをステーキハウス直営店で飲んでいただく、こととしたのでした。 ビールの酵母はチーズや肉類よりも豊富なたんぱく質、ビタミン群、ミネラル類がバランスよく含まれています。 「ミクロ世界のスーパーマン」と評価する科学者もいるほどに健康食品として優れているのです。最後にビール酵母の効能をそのメーカーの造る医薬品の説明書きから抜粋してみましょう。「食欲不振、消化不良、胃部・腹部膨張感、嘔吐、胸やけ、胃弱、栄養障害、栄養補強、妊産婦・授乳婦・虚弱体質者の栄養補強」などです。
2000.7.11 Vol.038

○「地ビール」への旅
1995年(平成7年)の1月17日この日はウィーンで購った地ビールの醸造機一式が三田屋の本社に搬入される日であった。私は予め荷揚げされた六基のコンテナーを神戸ポートアイランドの埠頭にその荷姿を確かめてあったので万全の受け入れ態勢を前日に終えて愉しみに待つだけだった。この機器類は近畿と日本の外食産業で一番の地ビール醸造を私に約束してくれるものであった。ところがその日の未明に突然に阪神淡路を大地震が襲ったのであった。ウィーンから来日していた醸造機組立て技師たちは余りの恐怖に即時帰国してしまった。それでもコンテナーは神戸ポートアイランドの仮架橋を渡って、その日から僅か18日後の2月4日に運び込まれた。私は幸運だった。壊滅的状態だったコンテナー埠頭から全く無傷のまま醸造機やタンクが工場に着き、再来日したウィーンの技師たちによって組み立てられたのである。僅かの遅れなど何でもないことであった。美しく磨かれた銅の醸造機に思わず頬ずりしないではいられなかった。この時私はこの幸運に対し「日本で一番おいしいビールをつくらなければ・・・」と決意したのであった。と同時にこの前年に訪問したヨーロッパの国々が鮮やかに蘇ってくるのであった。

「ピルスナー」の元祖 ピルゼン醸造場
僅か16日間に7百万人のビール党が世界から押し寄せてくるミュンヘンのビール祭。天にも届こうかという大テントの中で浴びるほど飲み、理屈抜きの人生の幸福に浸った私はやっとのことでチェコの首都プラハに辿りついた。二度の対戦の前後ばかりでなく数々の侵略や戦乱によって辛酸をなめたチェコは漸く1993年独立した。私がプラハを訪ねた前年のことであった。「百塔の街」「黄金のプラハ」と謳われるプラハは多くの困難をのり越えてヴルタヴァ川の両岸に世界遺産を多く遺して健在であった。歩行者天国のカレル橋は多くの観光客で賑わっていた。ホテルにチェックインを済ませた私はベルボーイにピルゼン市への道のりを尋ねた。目的の「ピルゼン醸造場」に行くためだった。車では2時間ほどかかると言う。タクシーをたのむとベルボーイは自分の車を用意してきた。突然自分の仕事を放棄して白タクに早変わりしたのだ。彼にしてみれば頗るワリのよい仕事だったのだろう。かくして私たちはベルボーイの小型車に揺られつつ、良質の大麦・小麦のできる肥沃の地ピルゼンに無事着いたのだった。ピルゼン醸造場は私たちがいつもふつうビールと呼ぶ、淡色のビール「ピルスナー」を世界ではじめて造った工場なのである。専門的には下面発酵方式による低温ラガービールということになるが、ふだん私達が飲むアサヒやキリンや、バドワイザーもクワーズもこの「ピルスナー」である。私が地ビールを造ろうとした動機は、ステーキハウスのお客様に本当においしいビールを楽しんでもらいたい一念からだったが、どんなタイプのビールをつくるかについては何も悩むことはなかった。これ迄飲んできたビールと比較してもらうにはピルスナーを造ればよかったのだから。
私はピルゼン醸造場がピルスナーの元祖であり、この優れたビールをその後全世界のメーカーが競って造り今日のビールの代名詞となったこと、そのために元祖ピルゼン醸造場は「ピルスナー・ウルケル(ウルケルは元祖の意味)」と名乗らなければならなくなったことを、早くから知っていた。私がこのピルスナーを造るためには何が何でもこの元祖をこの目で見ておかなければならなかった。
ピルゼン市営醸造場は1842年、ピルゼンの麦芽とホップを使って、バイエルン式仕込方法によって醸造を開始した。当時の記録は次のように驚きと歓喜の様子を書きのこしている。「その出来たビールは、黄金色に透明に輝き、泡は白く豊かに沸き上がり、そしてシャンパンのような芳醇で新鮮な香味と、力強く心地よい苦味が素晴らしく、それを飲んだ市民たちは踊り上がって歓んだ。」
何しろバイエルンなどで造るビールは褐色か黒色の濃色ビールばかりだったのだからこの黄金色に輝いたビールを見た市民が大驚きしたのは当然であった。その後鉄道の発達によってこのシャンパンのようなピルスナーはハンブルク・ウィーン・パリ・ロンドンへ、1873年にはアメリカにまで渡り世界の評価を受けたのであった。その後専門家の研究によってこの淡色ビールは「軟水」によって生まれたことが分かった。ピルゼン市内を流れるホルモカ川の異質の「超軟水」だったのである。発明や発見は偶然性に負うところが甚だ大きい。2001.4.3 Vol.044

○地ビールの出発点・ニュージーランド
「出会いは絶景」とは三菱製紙の高砂工場を長く勤めた俳人永田耕衣さんの言葉であったが、私にとって絶景なる出会いはニュージーランドをおいて外はない。私が近畿のトップを切って、地ビール醸造をはじめるキッカケを作ってくれたのはオークランドの某店某氏との出会いからであった。平成二年の頃私はよくニュージーランドに行った。年に4・5回は通っただろうか。そのころ私はあるワイン醸造家の知遇を得てブドウ畑の一角を三田屋用として仕切ってもらいワインを輸入していた。現地に住む日本人との出会いもあった。当時九百万ほどで購えた三百坪の土地つきの家を手に入れて彼に管理を依頼したのももう遠い日のことである。某店はオークランドの街の中心にある。某氏はニュージーランドでは最初に地ビールメーカーであるそのシェークスピアという名のブルーパブで給仕もし、裏方ではビールを醸造していた。私は地ビールに出会ったのはこの時がはじめてで、ビール党であった私がはじめて出会った感動の美酒であった。店の中をよく観察するとさまざまな装飾の中に複雑な回路のパイプが数多くはしっていた。あれは何だ。ヒョロリと背高の某氏は、左右の手を何度も回転させながら、醸造しあがったばかりのビールを貯蔵タンクからこのカウンターのサーバーに直結しているんだ、客はでき立てのビールをタンクから飲んでいる、と誇らしげに言ったのだった。私は、工場を見せてくれと叫んでいた。某氏は快く私を案内してくれた。そして私は某氏の好意でこの工場兼店舗(ブルーパブ)でビール醸造技術を習うことになる。私は平成5年に至る三年間に三十五日間この工場で醸造を習ったのだが、その年の暮、私は夢のようなニュースを聞くことになる。地ビール解禁である。細川内閣の規制緩和策が大蔵省を通して発表されたのである。何という幸運か。年が明けるや私はすぐに米欧六カ国のたびに出発したそして私は日本の外食産業として初の地ビール醸造に取り組むこととなったのだが、私にとってこの地ビールは実の子のように可愛く、いつまでも美味しく育てていかなければならない。そしてこのかわいい子を私に授けてくれた「オークランド」は永遠の感謝を捧げる友となった。